8月6日の被爆体験を語る岡邊好子さん=宝塚市内(撮影・風斗雅博)
8月6日の被爆体験を語る岡邊好子さん=宝塚市内(撮影・風斗雅博)

 広島に原子爆弾が投下された1945年8月6日。15歳だった。広島女学院高等女学校の4年生。弁護士になりたかった。もっと勉強したかった。青春なんてなかった-。

 兵庫県原爆被害者団体協議会理事長の岡邊好子さん(88)=宝塚市=は核廃絶を訴え、子どもたちに被爆体験を伝え続けてきた。昨年「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」がノーベル平和賞を受賞し、迎えた戦後73年の夏。岡邊さんの語りに耳を澄ませた。

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 4人姉妹の三女。両親と家族6人、広島駅の近くに暮らしていた。

 あの日の午前8時15分。長女以外の姉妹3人が在宅し、岡邊さんが学徒動員で鉄道局に出掛けようとしていたその時、ドーンという破裂音とともに体が宙に浮いた。爆心地から約1・5キロ。家は屋根ごと崩れた。

 それからどれぐらいの時間がたったか。岡邊さんの耳に「好子ちゃん」という声が聞こえた。「皮膚がめくれてドロドロ。口も鼻も形が変わっていた」。母だった。

 爆心地から北西160メートルにある広島県産業奨励館(現・原爆ドーム)のそばで動員作業中に大やけどを負い、必死に家までたどり着いた。「お母ちゃん」と声をかけた。その後、母は意識を失った。

 火の海が迫っていた。外した便所の戸板に母を乗せ、けがが軽かった岡邊さんと次女で持ち上げた。額から出血した四女とともに、飲まず食わずで遠方にある避難場所の小学校を目指した。

 道路も橋の上も川の中も、焼けただれ性別も分からなくなった遺体ばかり。死んでいる母の乳房をすう赤ちゃんもいた。「助けてください」「お水ちょうだい」のうめき声が響く。

 途中、目を覚ました母が「私はこのままでいい。お母ちゃんを置いて、子どもだけで早く逃げて」と言った。「何言ってんの」と返し、ただただ懸命に前に進んだ。

 ようやく小学校の講堂に着き、入り口で父の名前を告げると、「今日か明日の命です。重傷の部屋です」と教えられた。

 軍需物資調達商の父は、原爆ドームの隣で会議を終えた後に被爆した。頭から背中、尻までひどいやけどを負い、伏せた姿勢の父がいた。

 長女も重傷の部屋にいた。屋外で上を向いた瞬間に熱線を浴び、顔や手に大やけどをした。いったんトラックに乗せられ、火葬場近くまで運ばれたが、「私はまだ息をしています」と声を絞り、小学校に移ってきたという。

 家族6人のうち、父と母、長女の3人が生死の境にいた。しかし、治療薬がない。やけどが化膿し、ウジ虫がわいた。でも「赤チン」を塗るしかすべがなかった。岡邊さんは「膿がとれる」という青草を田んぼに探しにいき、やけどの上にその草を貼ってあげた。

 高熱に苦しんだ父は、家族のことをうわごとで言い続け、夜には「子どもが気になる」と叫び声を上げた。終戦の日から3日後の18日、息を引き取った。

 父は講堂の片隅に真っ裸で置かれていた。

 岡邊さんはその体を抱きしめた。

 小学校近くの一軒ずつに「このままでは火葬できません」「浴衣を下さい」と頼んで回った。重傷の母と長女は何もできず、涙を流すだけだった。

 この年、広島で約14万人の命が奪われた。(中島摩子)