Jリーグから世界に羽ばたいたサッカー選手のように、ヴィッセル神戸で経験を積み、国際大会で活躍する女性の広報担当者がいる。2014年のワールドカップ(W杯)ブラジル大会で日本人で唯一、国際サッカー連盟(FIFA)のメディアオフィサー(報道担当)を務めた岩元里奈さん。今は東京五輪・パラリンピック組織委員会で各国メディアを迎える準備を進める。広報の役割や神戸時代の思い出を聞いた。(小川康介)
-Jリーグの京都サンガで広報人生をスタートさせました。
「当時の京都にはラモス瑠偉さんやカズさん(三浦知良選手)らスター選手がいて、周りにいるマネジメント会社の人たちの存在も初めて知りました。関西だけではなく、東京のメディアともつながりができました」
-その後ヴィッセル神戸へ。
「00年末、カズさんの神戸移籍が決まり、取材も多くなるので選手も記者も知る私に声が掛かりました。京都に愛着がありましたが、将来を考えたときに大きかったのがW杯です。1998年のフランス大会を見に行き、サッカーって本当にグローバルなスポーツだと実感し、02年の日韓W杯は絶対に関わりたいと思いました。開催地の神戸ならできるかなって」
-思い出を教えてください。
「カズさんから『選手だけじゃなく、広報も営業もサッカーで飯を食わせてもらっている。Jリーグが始まるまでは、そんな人はほとんどいなかった。プロ化はありがたいこと。だからこそ、仕事に対してプロフェッショナルじゃなきゃいけない』と言われたのが忘れられません」
「02年のW杯では会場ごとの報道担当のアシスタントをしました。夢のようで楽しかった。初めてFIFAメディアオフィサーという仕事も知りました。取材ゾーンの調整や記者席の配置を決め、会見の司会もする。人を動かし、メディアを通じて全世界にFIFA基準の世界大会というのはこういうものだとアピールする。まさかブラジルで自分がその役目を担うとは思ってもみませんでした」
-神戸で転機を迎えました。
「07年に初めて女子のW杯に呼ばれました。運営に関わる人の8割が女性。全ての英語を理解し切れないし、仕事はできないし、『世界にはまだまだ上がいる』と思い知らされました。家庭と両立している人たちからは仕事だけが人生じゃないと教わりました。当時は神戸での仕事にやりがいを感じ、東京にいた今の夫との結婚を考えられないでいましたが、考え方が変わっていき、東京に移ってJリーグの職員になりました」
-さらに五輪にも関わるようになります。そのきっかけは?
「13年にサッカー男子の国際大会に呼ばれましたが、Jリーグの仕事をしながら、そっちにも行くというのが難しくなってフリーになりました。その後、卓球やアルペンスキーにも関わり、日本オリンピック委員会(JOC)の広報専門部会の部会員になった流れでリオデジャネイロ五輪に行きました。サッカーのようにプロがいて、いつも取材を受けている競技もあれば、全然取材を受けていない競技もあります。試合に敗れた選手のコーチに『今、どんなにつらいか分かっているんですか』と取材を拒まれた時は説得するのが大変でした」
「一方で、なんとか1枚の取材パスを得て来た地方新聞の記者もいます。新体操の団体でメンバー6人中、出場できたのは5人ですが、6番手が地元出身なら話を聞きたいと考えます。記者も地域の代表。どうやってその手助けができるかを考えさせられました」
-東京五輪・パラリンピックまで2年を切りました。
「来春までに43会場と選手村のメディア関連施設の仕様を、その後で人員の配置を決めます。悩みは、部下たちが広報経験者ではなく、普段メディアの人たちと話をしていないためイメージが湧かないこと。いろんな大会に派遣し、どう動いているのかを見ておいでと言っています。世界から6000人のメディアを迎えるため、準備にベストを尽くします」
【いわもと・りな】1973年鹿児島県生まれ。96年、同志社女子大から京都サンガに入社し、広報に。2001年にヴィッセル神戸に移り、09年からのJリーグ勤務を経て13年にフリー。44歳。