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1990年に撮影された浜田球場。上部の球場北側を国道2号が東西に走る(尼崎市立地域研究史料館提供)
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1990年に撮影された浜田球場。上部の球場北側を国道2号が東西に走る(尼崎市立地域研究史料館提供)
浜田球場で練習する阪神タイガースの選手たち。同球場が完成した1979年の撮影とみられる(阪神電鉄提供)
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浜田球場で練習する阪神タイガースの選手たち。同球場が完成した1979年の撮影とみられる(阪神電鉄提供)
さら地となり、工事が進む浜田球場の跡地。左奥の白い建物は尼崎南署仮本庁舎=尼崎市大庄川田町
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さら地となり、工事が進む浜田球場の跡地。左奥の白い建物は尼崎南署仮本庁舎=尼崎市大庄川田町
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 かつてそこは、誰もが注目する場所でした。

 ランドマーク、活況を呈した施設もありました。人々の営みを支え、娯楽を供し、憧れに応えてくれました。

 しかし今や、それらは姿を消し、往時をしのぶ人も減っています。

 見る影もなく消え去った「夢の跡」を訪ねました。

 ※随時掲載します。(2020年5月の連載から=年齢、肩書は当時)

■国道2号そばの浜田球場 阪神選手の“虎の穴” 球音、歓声 今は工事の音に

 せわしなく車が行き交う尼崎市西部の国道2号。そのそばには、天を突くように網のフェンスがそびえ立つ。昭和50年代半ばから数年前までの光景。そこにあったのは阪神タイガースの選手たちが汗を流した浜田球場だ。

 「開幕前かな。バースが練習で打った球が、あのライトの高い網を越えていったんよ。びっくりした」

 元阪神投手で1985(昭和60)年のV戦士、中田良弘さん=デイリースポーツ評論家=は懐かしそうに話す。

 タイガースの本拠地・甲子園球場は、春夏にある高校野球の甲子園大会で使えず、チームは練習場にも事欠いた。75年、国道2号を走っていた阪神電車国道線が廃止となり、車庫の跡地があく。4年後、球団専用の練習場として浜田球場が造られた。

 観覧席やナイター設備はなかったが、左右両翼の長さは本拠地と同じ91メートル。投手が練習するブルペンも国道2号近くの一塁側に設けられた。「コントロールの悪い若手が、捕手の上にある屋根を越えて2号線まで投げたって聞いたことがある」と中田さんは笑う。

 シーズン開幕前や秋季の練習などで1軍が来ることはあったものの、主に2軍の練習や公式戦に使われた。選手用のロッカーはなく、プレハブのような小屋の中に荷物を置いて着替えたという。

 中田さんはプロ1年目の81年に6勝8セーブを挙げたが、やがて肩を痛めてしまう。選手寮「虎風荘」は当時、甲子園球場の近くにあった。大勢のファンが待つ本拠地に背を向け、タクシーで浜田球場に行き、外野をひたすら走る日々。ファンとの距離が近く、試合でもネット越しに「何しとんねん」などの厳しいやじもよく聞こえたという。

 「甲子園とは環境が違いすぎて、プロなんだけどプロじゃないような。浜田球場は調整の場所じゃなくて、心身を鍛えるところ。『絶対に落ちたくない』というハングリーさは出るよね」と苦笑する。

 90年代前半の「亀新フィーバー」を生んだ亀山努、新庄剛志らもプレーしてファンを集めたが、94年にタイガースは今の西宮・鳴尾浜に練習場を移す。甲子園球場のラッキーゾーンが92年に撤去されて外野が広くなり、規格が浜田球場と合わなくなったことが主な理由だった。施設はしばらく残ったものの、2016年、隣接する阪神バスの車庫再整備で姿を消した。

 「さびしさはあるよね」と中田さん。ここで歯を食いしばった日々が、12勝を挙げて日本一に貢献した85年の活躍に結び付いた。「そういう思い出もあるからさ」。選手たちが夢を追った“虎の穴”は東側を中心にほとんどがさら地となり、商業施設が建設される予定。球音や歓声に代わり、今はただ工事車両の行き交う音が響いている。(伊丹昭史)

→【尼崎市のページ】(https://www.kobe-np.co.jp/news/amagasaki/)

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