1042年に有馬を訪れた記録が残る藤原頼通が建立した平等院鳳凰堂
1042年に有馬を訪れた記録が残る藤原頼通が建立した平等院鳳凰堂

 平安時代、娘をもうけ天皇に嫁がせ、男の子を生ませて、その子を天皇にして操る…。悪いやつだとお思いでしょうが、この時代の常識でした。ですから、子宝の湯として知られていた有馬温泉は存在価値がありました。

 一家で3人の后(きさき)を輩出する「一家三立后」を成し遂げ、事実上の日本の最高権力者となった藤原道長は、1年で息子の頼通に摂政の地位を譲り、出家し政界から引退しました。1024年、糖尿病の治療のために有馬にやってきます。

 頼通は子供に恵まれず、多くの妻を抱えることもしていなかったので、1042年、有馬へ本妻とやってきたようです。頼通というと、反乱や疫病の平穏を阿弥陀如来に祈願するため、10円玉に描かれている平等院鳳凰堂を建立したことで有名です。鳳凰堂はインバウンド(訪日外国人)観光客にも非常に人気があります。

 1097年に「希代の濫雨山津波、崖崩れあった」と六甲山の災害史に記録があります。これでまた有馬は土砂に埋まり、しばらくは人が訪れることはなかったと思います。

 1128年、有馬に白河天皇が来ます。白河天皇はその後、院政を敷きます。白河法皇の多くの交際範囲の中でできた子が平清盛だという説があり、「平家物語」では、法皇の子を身ごもった祇園の女御が平忠盛に与えられたとあります。

 忠盛は白河院政と鳥羽院政を武力面で支え、日宋貿易で富を築いていました。それを受け継いだのが平清盛。鳥羽院の死後は後白河天皇方につき、地位と権力を築いていきました。

 清盛は妻の妹の滋子(建春門院)を後白河法皇に嫁がせ、2人の間にできた高倉天皇のもとへ娘の徳子(建礼門院)を嫁がせました。しかし、なかなか子どもができないので焦ったはずです。

 清盛は1162年頃から「大輪田の泊(とまり)」の改修を始め、福原に居を移します。有馬温泉のすぐ近くです。有馬の温泉寺には清盛の石塔がありますが、清盛が有馬に来たという史実はないのです。そして、石塔の年代測定をすると少し年代が新しかったのです。

 1163年に心西入道という僧が有馬の温泉寺に法華経を奉納した史実があります。また、平家一門は平家の繁栄を祈って厳島神社など多くの神社に経を奉納しています。お経を奉納するということは相当の財力がないとできないことなので、想像ですが、清盛が心西入道の名前をかたって温泉寺に法華経を奉納し、高倉天皇と娘の徳子との間に子供ができるように、温泉寺の薬師如来に祈願しに来たのではないかと考えています。(有馬温泉観光協会)