鎌倉時代末期から室町時代にかけて、幕府の外交先は現代の中国なので漢文を作成する必要がありました。四六文を用いた法語や漢詩を作る才能が重要視され、五山文学と呼ばれる漢文学が盛んでした。その中で温泉文学も生まれ、「温泉」とは有馬温泉を指していたのです。なぜなら、1344年雪村友梅(せっそんゆうばい)、1345年虎関師錬(こかんしれん)と、早期の五山文学を代表する人たちが有馬に来たからです。
室町時代の僧、瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の「温泉行記」によると、瑞渓は1452年4月7日早朝、京都・相国寺からお供の僧を1人連れ、輿(こし)に乗って陸路で有馬に向かいました。箕面の瀬川の宿に着いたのが申(さる)の刻(午後3~5時)。翌朝早く輿に乗って進むと、途中で道が分からなくなりました。
迷っていると、湯治帰りの者が白杓子(しゃくし)を持って通りかかりました。この時代の有馬の土産物は、吉野の川上村の木地師が作る白杓子と同じでした。道を尋ねてしばらく行くと道標があり、湯山から190町(約20キロ)。瑞渓は生瀬で武庫川を輿に乗ったまま舟で渡り、有馬に向かいました。船坂への道は険しく、瑞渓は輿を降り、草履を履いて川に沿って登り、「二の湯」の湯宿に着きました。
当時、有馬の町の広さは5~6町(5万~6万平方メートル)。人家は約100軒で、2階は湯治客用で、下を自家用にしていました。町は東西に200メートルほど蛇行し、町中に小さな川が西北に流れていて、家々の前に木を渡して橋にしていました。町中の小さな川とは現在の湯本坂のことで、昔は川でした。この川を付け替えたのが豊臣秀吉です。南北は約100メートル。縦横に小道が通り、北は小高く南は高く、まるで樋の底にいるようです。
一つの道は温泉寺に通じ、もう一つは山道に通じており、瑞渓の泊まった湯宿は十字路の所に位置していました。翌日、瑞渓が1階を見ると店主が手に曲げ刃を持ち、もう一人がろくろを回して「挽物(ひきもの)」を作っていました。これが当時の湯宿の通例で、同じ頃に別の湯治者も挽物細工をしている様子を記載しています。
有馬では近年までろくろ細工が盛んで、「有馬の挽物」というと薄いモノの代名詞に使われていました。有馬玩具博物館には、秀吉の時代と言われる挽物の「花見弁当」が展示されています。(有馬温泉観光協会)