高齢ドライバーによる交通事故が社会問題化する中、警察や自治体が促している運転免許の自主返納が伸び悩んでいる。日常生活の足としてマイカーを諦めにくかったり、認知機能の衰えを自覚しにくかったりして、本人や家族が決断するタイミングは難しいのが実情だ。夫の物損事故を機に、免許を返納するよう説得した兵庫県丹波市の女性(71)は「『危ないかも』と思いながら、さらに迷っている間にも(夫が)人をひいてしまっていたかもしれない」と打ち明ける。(伊藤颯真、井上太郎)
■事故から4時間後に
「ご主人が事故を起こされました」。4月24日の午前10時半ごろ。警察からの電話に女性は戸惑った。「今さっき出かけたばかりなんですが…」
現場に駆け付けると、夫(74)はミニパトの中でおとなしく座っていた。何があったのか尋ねても、うつむいて黙り込むだけだった。
路肩には軽トラックが止まっていた。夫の車だ。バンパーが大破している。県警丹波署によると、三差路のガードレールにぶつかった自損事故だった。夫はそのまま約40メートル先の自動車整備工場まで走らせ「修理してくれ」と依頼したといい、従業員が110番した。けが人はなかったと聞き、女性は胸をなで下ろした。
事故処理が終わり、女性は夫を連れて署に赴いた。署員から免許の自主返納を勧められ、はっとしたという。「このままだと、いろんな人に迷惑がかかってしまう」。女性が諭すと、夫は無言でうなずいた。
事故からおよそ4時間後。必要書類に夫の生年月日などを記入し、想像していたよりあっさりと、自主返納の手続きが終わった。軽トラは廃車。夫が趣味で大切にしていたバイクも売却した。
■ダンプに砂を積んだまま
夫は大型トラックやバスの免許も持っていて、もともと運転はうまかった。だが年を重ね、女性の目にも危険な兆候は表れていた。
夫がまだ地元の建設会社に勤務していた昨年末ごろ。運搬したはずの砂をダンプカーに積んだまま会社に戻ってきたことがあった。運搬先にたどり着けなかったといい、「何度も通ったはずの道が分からない」と漏らした。建設会社は今年3月で退職した。
同じ頃、食卓でも異変が見られた。おかずだけを食べ続けた後に白飯を一気に平らげるなど、おかしな食べ方をするようになった。
女性は認知症を疑い、病院を受診させたが、「特に変わったところはない」と診断された。運転は危ない気もするが、認知症ではないようだし-。夫が自損事故を起こしたのは、女性がそんな迷いを抱いていた時だった。事故により「やっぱり駄目だ」と確信した。
とはいえ、日々の買い物や通院など、夫婦の生活に車は欠かせない。自宅は市街地から10キロ以上離れた山あいの集落にある。
免許返納と引き換えに交付される「運転経歴証明書」を提示すれば割安でバスやタクシーに乗れるが、「毎回毎回タクシーを使ってたら生活が苦しくなる」。女性がまだ運転できるので夫の免許を手放せた、というのが本音だ。
女性も最近、車の駐車時に後方が見にくいと感じることがあるが、免許更新時に認知機能検査が義務付けられているのは75歳以上。自分が免許を返納する時期は、まだ具体的には思い描けていない。
■新制度利用は県内で2人
兵庫県警によると、県内で免許の自主返納件数のピークは2019年の2万8133件。09年からの10年間で10倍に増えた。
19年は、東京・池袋で高齢ドライバーの車が暴走し、母子らが死傷した事故があり、全国的に自主返納が急増した。だがその後3年間は、新型コロナウイルス禍で運転機会が減ったこともあり減少が続く。22年は前年より2250件少ない1万9182件だった。
昨年5月には、自主返納に至るまでの過渡期の選択肢として、自動ブレーキなどの先端技術を搭載する「安全運転サポート車」の限定免許制度が始まった。ただ普及には程遠く、県内の取得者は今年6月末時点で2人しかいない。
丹波市では65歳以上の高齢者の免許保有率が34・4%(7月末時点)で、県平均(23・0%)を大幅に上回る。重大事故を防ぐため、丹波署は、認知症で徘徊した人やアルコール依存症患者らにも免許返納を促す取り組みを進めているが、実際の相談につながるケースはごく一部という。
丹波署の井上栄純交通課長は「アフターコロナで交通量が増えるにつれ、大きな事故のリスクも高まる。運転ができないと自覚するのは難しく、家族らの指摘が事故を防ぎ、命を守ることにもつながる」と話す。