ルッキズムを巡るアンケートへの回答から抽出したキーワード
ルッキズムを巡るアンケートへの回答から抽出したキーワード

 ルッキズムという言葉が広がっています。外見に基づく差別や偏見のこと。最近では「見た目で人を判断すること」「容姿に言及すること」など多面的な文脈で使われています。ルッキズムに対する考えや容姿を巡る体験談をアンケートで募ると、さまざまな回答が寄せられました。その中からいくつか紹介します(回答は一部要約、省略しています)。

ご意見や体験談は、随時こちらで募っています。

□心は泣いていた (40代女性)

以前は今より20キロ太っていたのですが、やはり陰では笑う人がいました。笑いのネタにされたりもし、性格上笑っていましたが、心で泣いていました。

□美人とは程遠いけど (50代女性)

私は自分の容姿に愛着を感じます。そばかすもたくさんあり、くりんとかわいい目でもなく、美人とはほど遠いです。体形もおなかは出てるし足も太い。そんな自分ですが、この身体で生まれ55年、がんばっている身体に感謝しています。それは家族や他の誰かにも同じ思い。お互いを大切に思って、自分の思い通りの容姿でなくても、工夫して思い通りに近づくように楽しめたらいいなと思います。ただ清潔にはしていたいと思って暮らしています。自分を好きになれば、容姿は関係なく、みんな輝くと思います。

□アホ毛を見ると (40代女性)

アホ毛と呼ばれる毛が多く、友人に指摘され、とても気にしたことを覚えています。ヘアアイロンは買ってもらえず、もちろんストレートパーマもかけさせてもらえませんでした。大人になった今でも、アホ毛を見ると当時の気持ちを思い出します。

□外見より中身は… (40代女性)

絶対に「外見より中身」はうそだと思います。私は一重で太っていました。ずっとブズ、デブ、臭い、汚い、キモいと男子に笑われ、自殺を考えるほどのいじめを受けてきました。20歳の時に20キロダイエットをして、目を二重に整形しました。性格や思考は全く変化ありません。しかし高校を卒業してからも駅などで会うたびにコソコソニヤニヤ、周囲に聞こえるように陰口を言っていた同級生と、痩せた状態で成人式で再会した時、周囲の手のひら返しに驚きました。数人にいきなり下の名前で呼ばれ「めちゃくちゃきれいになったやん!写真撮ろう」と言われ、昔の話などなかったかのように普通に世間話をしました(私はいじめられたことを忘れるわけもなく)。以後、会うたび「やっぱりきれいやなぁ」と話しかけてきます。本当に腹立たしいですが、中身はあの日の汚いバイキンの私のままなのに単純だなと冷ややかな目で見ています。普段の生活の中でも、赤ちゃんからご高齢の方まで、やはり整ったもの、美しいものが本能的に好きなんだなと感じます。外見など関係ない内容の仕事でも「きれいやなぁ」とお褒めいただくことがあったり、にっこり笑うだけで許されたりすることもあります。私はいじめられた過去もあり自己肯定感が低いので、お褒めいただいてもうれしさは何も感じません。毎度、外見が人並みよりよければ許されることや得があるのだな、やはり人間は中身が良くても外見が悪いとスタートラインにも立てないのだなとむなしい気持ちになります。結婚してもきっと外見が好みなら多少のことは許されるとも思います。

□40歳を過ぎて (50代男性)

子どもの時は特に自分の顔がかっこいいかどうかが気になっていたが、40歳を過ぎたあたりからほとんど気にならなくなった。他人の容姿への関心もほぼ同じような推移です。

□嫌な所を受け継いだ (60代女性)

慰めか、家族は「他人は自分が思うほど容姿を見ていないよ」と言ってくれるけど、自分の長年のコンプレックスはなかなかポジティブに考えることができない。一つ目は反対咬合(受け口)。笑うと変な口になるし、まるで物語に出てくる毒リンゴを持っている魔女のよう…。だからコロナ禍になってある意味、口元を隠せて思い切り口を動かしたり笑ったりできるようになりました。もう一つは胸が豊満なこと。胸ばかりが風船のようにパンパンなので、ブラジャーをすると胸を持ち上げるので余計に大きく盛り上がります。着たい服も胸のせいでサイズが合わず、Tシャツも胸を強調してしまうので、上から羽織る物が手放せません。だから年中、ノーブラです…。もう年齢的にも重力で垂れチチになっているし、キレイな胸元は期待もしていません。胸の大きいのは母方の祖母から母や姉妹、みんな遺伝です。嫌な所を受け継いだなと思います。

□私のものさし (50代女性)

昭和40年代に生まれた女性です。子どもの頃から、父親や親戚から「母親は美人なのにどうしてそんな顔なんだ」「不細工だから勉強をがんばって一人で生きていけるようにしろ」「22、23歳くらいまでに結婚しないとその顔では誰ももらってくれない」など、容姿についていろいろ言われ育ってきました。勉強して成績が良くなっても身近な大人から「不細工のくせに生意気だ」と言われ、自分が情けなく、生きることが辛いこともありました。それでも、当時は子どもなので大人の言うことは聞かなければならないと考え、「自分は不細工だから勉強しないと生きていけない」とずっと思って生きていました。自己肯定感も低く、思春期になって良いなと思う異性がいても、自分は不細工だから近づいてはいけないと思い、好きになることをあきらめていました。このような考え方を持ちつつも、学業の成績だけが自己肯定感をつくるものだったので、人一倍努力し認められるまでがんばりました。また、自分の性格や態度で人に不快感を与えないように振る舞うことに努めました。高校時代には容姿に悩んでいることを話せる友人もできて、報われた気分になりました。大学時代はサークル活動などで明らかな「ルッキズム」を感じることが多くあり、つらい気持ちになることもありましたが、これまでの経験から、「仕方ない」「諦めたらそれで良い」と考え過ごすことにしました。ルッキズムについては、社会人になっても感じることがありましたが、反対に容姿だけで判断する人ばかりではないことが分かり、そのことが自分の支えになりました。人はそれぞれ考え方も価値観も違う。当たり前のことなのに、そのことに気づけたのは社会人となり、自分に良き理解者ができたことからです。人間である限り、感情としてルッキズムはなくなることはないと考えます。容姿も個性。生かすことも自由だと思うし、容姿の良い人はうらやましいとも思います。美人は得をするのも事実です。けれど、それだけをものさしにしている人ばかりではないことも事実です。私は幼少期の体験から、自分のものさしを多く持ちたいと考えています。そのために50代後半になる今も模索し、行きつ戻りつしています。

□ほっといてほしい (40代女性)

私は食が細いので、幼い頃から痩せ気味です。社食の量が多いので、残して捨てられるのももったいなく、作り手に対しても申し訳なかったので、食べられない分は持ち帰っていました。それを見ていた同僚や先輩たちが「食べる量が異常に少ない」「容姿を気にしてわざと食べ残している」とうわさを流して大変不愉快な思いをしました。外見や容姿についてはほっといてほしいと心から思っています。

□どうか劣等感を抱かず (40代男性)

幼少期は、面長や細目などを大人からも子どもからも良くは言われないことが多くてしんどかった。目がパッチリ、二重まぶた、小顔がもてはやされる世間に嫌気もさした。しかし、心に傷を負った子どもたちと関わるとともに、自分が容姿で判断されていないこと、容姿は関係なく自分を必要としてくれる誰かがいると気付き出してからは、容姿はどうでもいいことに気付かされた。自分の子どもを含め、子どもたちにはどうか自身の容姿に劣等感を抱くことのない社会であってほしい。

□若く見られて (50代女性)

同年代よりも若く見られることがよくあり、自慢に思っている。しかし「子供を産んでいないから」「なるほど~」という会話が付け加えられる。聞き流しているが、良い気分ではない。

□両立のしんどさ (50代男性)

容姿にこだわって飾ることの大切さと、見られることを意識してのしんどさとの両立がずっと続きます。

□見た目が良くても (50代女性)

若い頃は見た目が良いと、同性から嫌がらせを受けることが非常に多く、大変生きづらい思いをしました。見た目が良くないことに関して「ルッキズム」という言葉は使われがちですが、良いことでも大変な思いをします。見た目が良いことは他者が思うほど良いことばかりではありません。女性同士のいさかいやイジメは、そのほとんどがねたみそねみによるルッキズムだと思っています。

すがたかたち ルッキズムを考える