亡き父には、自分が知らなかった家族がおり、80年前の8月6日、広島の原子爆弾で亡くしていた-。同志社大大学院社会学研究科教授の小黒純さん(64)は、実父の故・薫さんが残した前妻との思い出をたどる手記を手がかりに、自らのルーツを調べている。2人は芦屋市の教会で結婚式を挙げ、広島で暮らした。そして、犠牲になった子は、自分と同じ名前だった。(霍見真一郎)
「パパには昔ね、家族があったんよ」
広島で生まれ育った小黒さんが、その事実を母から聞かされたのは、高校卒業間際の1979年だった。母は喫茶店の片隅で、こう続けた。「びっくりせんでよ。死んだ子どもの名前は、あんたと同じなんよ。でも女の子」
父は原爆の日、軍務で東京におり、被爆を免れた。後に広島女学院大で学長まで務めた人物だったが、平和記念式典には一切行かず、8月には決まって不機嫌になった。再婚する際、母が提示した条件は「前の家族のことは一切持ち込まないこと」だったと後年知る。妻子の写真は、実家に1枚も残っていなかった。
戦後5年に書かれた、B6判28ページの手記「園子追憶」が見つかったのは、父が90歳で永眠した2004年ごろだった。さらに10年ほど経過した15年ごろ、小黒さんは公開を視野に、関係先の取材を始めた。
JR芦屋駅近くの芦屋組合教会(現・単立芦屋キリスト教会)を訪ねると、昭和17年度週報に、2人の結婚式が記されていた。「新郎新婦とも廣島女學院の教師として奉職、同地に居住せらるる次第」とあった。
2017年のノーベル平和賞授賞式で被爆者として初めて演説したカナダ在住のサーロー節子さんは、前妻の授業を受けていた。18年に小黒さんが手記を見せると「実にさっそうとした先生でした。世界のいろんな都市の話を語ってくれた」と振り返った。
知らなかった父の家族が、像を結び始めた。