「津波が来ないと思い込んでいた」。語り部として、震災前の自宅跡で当時の心境を伝える三浦祝子さん(右)=宮城県気仙沼市波路上杉ノ下
「津波が来ないと思い込んでいた」。語り部として、震災前の自宅跡で当時の心境を伝える三浦祝子さん(右)=宮城県気仙沼市波路上杉ノ下

 「この高台は安全だと伝説のように思っていた」。2011年の東日本大震災を、宮城県気仙沼市沿岸部の杉ノ下地区で被災した三浦祝子さん(80)は無念さをにじませる。市の指定避難場所だった高台は高さ約13メートルの津波にのまれた。夫正三さん=当時(67)=を亡くし、地区全体でも住民の約3割に当たる93人が犠牲となった。「ここなら大丈夫と決して思わないで」。15年前の教訓を地域の語り部として伝え続ける。

 同地区は気仙沼市役所から南約10キロの海沿いにあり、震災の津波で85世帯全戸が流失した。海抜約11メートルの高台は海岸から約200メートル内陸にあり、1896(明治29)年の明治三陸大津波でも被害を免れていた。

 地区では年2回の避難訓練を行い、津波の恐れがあれば高台へ逃げる意識が根付いていた。三浦さんの自宅は高台近くにあり「ここは絶対に安心という考えが強かった」と振り返る。

 震災の日、大津波警報が発令され、住民たちが訓練通り高台へ逃げてきた。正三さんは高齢者の避難を手伝った。三浦さんは低地の家が流されても「自分は大丈夫」と思い込み、荷物を取り出そうと自宅に戻ったところで津波をかぶった。

 がれきをかき分け、水中から逃げ出すと眼鏡もズボンも流されていた。正三さんの行方は分からず、周辺の家が全て流された光景に恐怖で体が震えた。約1週間後に見つかった正三さんの遺体は、眠ったような穏やかな表情だった。

 3月11日は三浦さん夫婦の44回目の結婚記念日だった。栽培したイチゴを一緒に箱詰めしながら「子どもも独立したし、少し仕事減らして楽すっか」「これからも頼むね」と言葉を交わした。2人で歩み続ける未来は断たれたが、三浦さんは「あの時たくさん話せて良かったって今は思うの」。そうかみしめる。

 正三さんの遺体は岩手県一関市で火葬した。震災後の混乱と津波で家が流されたため、化粧を施すことはできず、着物も着せられなかった。震災後、友人や知人の葬儀に参列すると正三さんへの申し訳なさが募った。「懸命に働いてもらって、最期があの形でごめんねってね」と声を落とす。

 杉ノ下地区はほぼ全域が災害危険区域に指定され、誰も住めなくなった。三浦さんは気仙沼市内の海から離れた場所に自宅を再建し、長男の家族と暮らす。震災の記憶を伝える「けせんぬま震災伝承ネットワーク」の語り部としても活動する。

 国内では南海トラフや北日本の日本海溝・千島海溝などで、巨大地震の発生が懸念される。三浦さんは自らの反省を踏まえ、言葉に力を込めた。「津波は沿岸のどこで起きても不思議じゃない。さまざまな情報から状況を判断し、自分で自分の身を守ってほしい」

(田中宏樹)