ハンセン病患者に対する隔離政策の根拠となった「らい予防法」(1953~96年)が廃止されて、きょうで30年になる。戦後に普及した新薬で完治するようになった後も回復者(元患者)への差別や偏見は根強く残り、法廃止も大幅に遅れた。なぜ過酷な人権侵害が長く続いたのか。私たちは過ちを直視し、その根を断たねばならない。
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ハンセン病は「らい菌」により末梢(まっしょう)神経や皮膚が侵される感染症だ。感染力は極めて弱いが、顔や手足の変形が起きることもあり、差別や迫害の対象となってきた。
隔離政策は新薬による治療法が確立された後も続いた。家族と引き離され、療養所への入所を強いられたことに絶望し、自ら命を絶つ人が相次いだ。家族に自死するよう勧められた人もいたという。
家族も結婚などで不当な差別を受けた。多くが親族に患者や回復者がいることを隠し、交流を絶った。全国の14療養所の慰霊施設には、家族らに引き取られなかった1万6千柱超の遺骨が安置されている。
らい予防法の廃止後、回復者らの苦闘によって司法の場での名誉回復は進んだ。2001年には隔離政策に対する国家賠償請求訴訟で違憲判決を勝ち取り、国は控訴を断念し回復者らに謝罪した。19年には家族の被害も認定し、国に損害賠償を命じる判決も確定した。
しかし、人々の心に根を下ろした差別意識の払拭は容易ではない。厚生労働省が24年に実施した全国意識調査では「回復者や家族に対する偏見や差別が今もあると思う」と答えた人が7割弱に上り、戦後の隔離政策も「やむを得なかった」との回答は1割あった。回復者の家族との結婚に抵抗を感じる人も2割いた。
重大な人権侵害は今も続いていると言わざるを得ない。
■差別を助長した施策
ハンセン病に対する差別意識は国や自治体の施策によって助長されてきた。戦前から戦後にかけて全国で「無らい県運動」が展開され、住民らが感染の疑いがある人を保健所などに通報し、地域から排除した。
兵庫県も感染者発見のための施策を推し進め、村単位で大規模な集団検診をした記録も残る。療養所での住居建設を支援する「十坪住宅」運動も広がり、兵庫県は全国有数の寄付を集めた。入所者の住環境改善につながった側面はあるが、実態は感染者隔離の強化だった。
それ以前から患者の不妊手術や人工妊娠中絶も横行していた。親子間の感染防止や困窮対策が表向きの理由だが、患者を忌避する社会風潮が後押ししたことは否定できない。
ハンセン病患者への不妊手術は、1948年の優生保護法制定にも影響を及ぼしたとされる。障害者に対する不妊手術などが国の施策として推奨され、兵庫県も66年から74年にかけて「不幸な子どもの生まれない運動」を独自に展開した。
重大な差別を見過ごせば、さらなる人権侵害を招くことを私たちは深く心に刻む必要がある。
■コロナ禍で同じ過ち
ハンセン病の患者らが被った過酷な差別や偏見は、新型コロナウイルスの流行初期にも繰り返された。
兵庫県から多くの人が入所した国立療養所長島愛生園(岡山県瀬戸内市)の山本典良(のりよし)園長は「私たちがハンセン病の教訓を十分にくみ取らなかったために、新型コロナ禍でも大きな混乱が起きた」と指摘する。
新型コロナの流行初期、感染者や家族へのバッシングはすさまじく、個人名を特定し排除しようとする動きがみられた。攻撃の矛先は濃厚接触者やクラスター(感染者集団)が発生した施設や事業所へも向けられた。しかしそうした行動は感染疑いなどの申告をためらわせ、感染対策に悪影響を及ぼす恐れがあった。
被害は感染者を診療する医療者にも及んだ。重症者が急増し医療崩壊が懸念される中、医療者を攻撃対象とする行為は医療体制の一層の弱体化を招きかねない。
山本園長は「日本人は感染を自己責任と考える人の割合が外国に比べて高い。科学的な根拠に基づき、感染症を正しく恐れることを学ぶべきだ」と強調する。
コロナ禍の発生から6年が経過した。新たな感染症の流行に備え、自治体などによる行動計画の改定も進められている。次の流行時には、ハンセン病や新型コロナの患者に対して犯した過ちを繰り返してはならない。国や自治体は感染症に対する差別や偏見の実態を検証し、再発防止へ粘り強く発信してもらいたい。























