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 「一緒に頑張れなくてごめんなさい。こっちで一生懸命、応援しているから」

 震災で菓子メーカー「本高砂屋」の新潟工場勤務になった雑賀正雄さん(48)の妻恵子さん(38)は、震災一年の今年一月十七日、日記にこう書いた。

 工場のある北魚沼郡湯之谷村に隣接した小出町の一戸建て。夫と一人娘の千昌さん(10)と暮らす。「転勤なんて、考えたことなかったですから」と、恵子さんは話し始めた。

 「震災までいた尼崎では、子どもを通じた友達とのかかわりもどんどん深くなっていた。そこから引き離されてポツンと一人になったような寂しさがあります。でも、大変な生活をしている被災者に比べれば、お給料ももらえるし住むところもある。そう自分に言い聞かせて越して来たんです」

 しかし、被災地から逃げ出してきたような申し訳なさを感じる。その思いが「ごめんなさい」という言葉になった。

 同時に「地震があってイヤイヤここに来た」という思いもぬぐい切れない。つらかったのは、冬の豪雪だった。

 「新潟でも雪が多いところで、うんざりするくらい降る。毎日が雪かきなんです。自然の厳しさは、地元の人にも同じだとはわかっているけど、被害者意識が抜け切れなくて」

    ◆

 会社は今春、「被災した六甲アイランド第二工場は三年をめどに再建」と約束した。恵子さんには約束が支えだ。「こっちの暮らしになじめず、憂うつだった。帰れるという見通しができて本当にうれしい。月日が過ぎるのを待っている、というのが今の状況です」

 同様の思いは、「いったん辞める覚悟をした」という和菓子部門の社員(33)からも漏れた。

 「辞令を受けた後、妻と子ども二人を呼んだ。しかし、妻は一年後に子どもと神戸に戻った。毎週、神戸まで車で帰っている。再建計画が示されなければ、辞めていたかもしれない」

 自分で将来設計を立てにくい社員にとって、会社の決断が持つ意味は本当に大きい。

 震災で閉鎖した住友ゴム神戸工場では、名古屋と福島県白河に三百四十人が異動。単身赴任は約七割に上る。今年五月、丹波の氷上郡市島町に新設された工場に三十五人が戻ったが、一部にすぎない。同社は「帰りたいという希望には沿いたいが、働く場所には限りがある」と言う。

 神戸工場の商船建造部門を香川県坂出に移した川崎重工は二百十人が転勤。約六割が単身赴任だ。同社も話した。「県内工場への再配転を優先する明確な人事方針は今のところない」

    ◆

 神戸に戻り、本高砂屋の本社を訪ねた。再建計画を確認するためだった。

 再建後の工場は、「きんつば」や高級生菓子などに限定して製造する。改修か、建て替えか、今年暮れには方向を出したいという。杉田肇社長(43)は「大変な時期によく頑張ってもらった。報いるためにも、できるだけ早く帰ってもらえるよう努力したい」と話した。

 日ごとに秋が深まっていく。新潟で社員らは「現地の人たちに技術を伝え、定着させないと」と話していた。それは帰る条件と同時に、彼らの気概でもあるようだった。

1996/9/22
 

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