岡山県・吉備高原のキャンプ場。一年五カ月ぶりの再会に会話が弾んだ。
「元気そうでよかった。もう四年生になったんやねぇ」。頭をなでられて憲樹(としき)君(9つ)は照れくさそうに笑った。
神戸市東灘区で被災した霜門勲さん(40)一家は、岡山の県営山陽団地に越していた。憲樹君と姉の薫さん(14)は休みを利用したキャンプに参加、憲樹君の担任だった池見宏子先生(52)が、そこまで訪ねてきた。
話はおのずと通っていた本山第二小学校のことになった。
中学二年生になる薫さんは卒業式でもらった学校のマーク入り瓦(かわら)せんべいのことを話し始めた。
震災間もない昨年一月末に地元の小学校に転校したが、二カ月後には神戸に戻って式に出席した。せんべいは今も一袋、自宅に残しているのだという。
「だって、小学校時代すっごく楽しかったから。避難所になっていた本山第二がテレビで映ると、ビデオに撮っていたし、絶対に本山第二で卒業したかった。せんべいも何か、食べるのがもったいなくて」
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震災で一時的に転校した小・中・高校生は延べ三万人以上。うち県外への転校は、ピーク時の昨年二月中旬で九千四百人、今年一月半ばには五千二百人となっている。
本山第二小では、震災当時に千百人が在籍していた。学校が再開した二月一日、登校したのは半数以下の四百五十人だった。現在は八百三十人。当時も今も在籍しているのは現五、六年生だけで、震災時より六十二人減っている。
当時、緊急避難という位置づけから、被災地の学校に籍を置いたままの「仮転校」が認められた。しかし今年四月から兵庫県教委などは通常の転校手続きに切り替えるよう指導、多くの仮転校生が籍を移した。
年度変わりは教育でも大きな節目になった。子どもたちの転出入が一段落したとして、先生の大異動があった。
池見先生も神戸市灘区の稗田小学校に移っている。震災時から三人目になる本山第二小の校長は話した。
「震災直後は学校新聞を送るなどしていたようですが、今では学校として転校生と連絡を取り合うことはありません。籍が転校先に移れば、その学校の児童になるわけですから」
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「神戸には帰れるの」との池見先生の問いに、薫さんはちょっと考えて答えた。「両親が復興住宅に申し込んでるんですけど」
住宅が当たったらいいなと思うが、親は「難しいやろな」と半ばあきらめていること、神戸には帰りたいが、岡山より高校受験が厳しいのではと不安なこと、中学でテニス部に入って面白くなってきたこと…。そんな話を先生はうなずきながら聞いていた。
父親の勲さんは神戸で勤めていた会社から建築金物の設計を請け負い、自宅でこなす。母親の弥生さん(39)は「神戸に一番帰りたいと思っているのは夫。子どもたちも感じていて『私たちよりお父さんの仕事を第一に考えて』と逆に励ましてくれるんです」と話す。
池見先生は岡山から戻ってすぐ、憲樹君らの元気な様子をはがきに書いて元のクラスメートに送った。「震災という特異な体験をした仲間として、つながりを持てたら」との思いからだ。
1996/9/18