「越の羊羮(ようかん) 本高砂屋」。大きな看板が、国道を挟んで村役場と向かい合う木造の事務所に掛かっていた。
新潟県北魚沼郡湯之谷村。ぐるりを山に囲まれ、只見川をせき止めた奥只見湖が近い。山を越せばもう福島県だ。村は、日本一おいしいと評判の「魚沼産コシヒカリ」の産地でもある。
神戸・六甲アイランドに本社がある菓子メーカー「本高砂屋」が、新潟工場を開設したのは一九八七年。当時、社長だった杉田政二会長(69)がここを選んだのは、「景色が美しく、感性豊かな地」が理由だったという。
震災後、新潟工場は急速に膨れ上がった。従業員百八十人。被災した六甲アイランドの第二工場に代わって、和菓子の主力工場になった。三棟からなる工場では、白い作業服に帽子、マスク姿の社員らが黙々と手を動かしていた。
◆
食堂で、神戸出身の社員から話を聞いた。急きょ出された「新潟工場勤務を命ず」の辞令で転勤となった人たちだ。
「弁当ばかりの暮らしでね。冬は二メートルも三メートルも雪が積もる。身動きが取れない。でも、現実は現実。感傷の気持ちではいられない」。単身赴任の甲斐頼雄さん(52)はこう話した。
神戸市東灘区に家族を残している斉藤博志さん(39)の言い方も似ていた。「仕事がなくなったわけではない。いずれ帰れるんだからいい方ですよ」。二人とも、自分自身に言い聞かせるような口ぶりだった。
工場には今、被災で異動になった「神戸組」が十五人いる。単身赴任が八人、家族とともに暮らすのが二人、単身者が五人。
神戸で洋菓子の仕上げや生産計画などを担当していた雑賀正雄さん(48)は、辞令が出た日のことをはっきりと覚えていた。
棚卸しなど残務整理を終え、「取りあえず新潟に行ってくれ」と言われた。到着は昨年二月五日。二・三カ月くらいかなと考えていたが、辞令はそれからわずか二週間後に出た。
新潟に来た社員らは、村が無償で提供してくれた元旅館で共同生活をしていた。異動の対象者二十三人を前に、神戸から出向いてきた本社人事部長の嘉祥寺光正さん(61)=現取締役=が説明した。
「期間は」
「長期になる」
「長期とはどれくらいか」
社員らは期間の見通しをしつように迫った。嘉祥寺さん自身、言えたのは「永住するつもりで」という言葉だけだった。
「長期には五年もあれば十年もある。はっきりしたことが示されず不満だった。でも、ここしか働く場がない。後は家族を呼ぶか、単身赴任かの選択だった」と雑賀さん。
◆
辞令を受けた二十三人のうち、五人が退社、三人は東京の営業所などへの転勤を選んだ。
被災した多くの企業は移転、閉鎖などの決断を迫られた。社員もまた「会社の再建計画」という器の中で、選択を迫られている。
「三年後をめどに第二工場の稼働を再開する」。ようやく会社がめどを示したのは、辞令から一年余りが過ぎた今年の春だった。
1996/9/21