■姉は母になり弟は父の背中を追った
寒い冬の夜。訪ね当てた家は神戸市東部の阪神沿線にあった。
洋風の白いドアを開けると、幼子のはしゃぐ声が聞こえてきた。
「お母さんって本当に大変。母の苦労がやっと分かりました」
二児の母になっていた岸本愛子(27)は、そう言って笑った。ジーンズに黒のシャツがよく似合う。
足元に甘えん坊の長男裕真(3つ)と、食いしん坊の長女愛海(1つ)がまとわり付いている。二人は朝起きるとすぐ、隣で寝ている夫の裕充(40)をよそに「ママー」と叫ぶ。命を丸ごと預けてくれる存在に、今日を生きる力をもらうのだという。
◆
一九九五年一月十六日、同じ場所に建っていた家にも、家族四人の団らんがあった。
夕食は親子丼だった。テレビが「近畿で震度1の地震」とテロップで伝えた。高校三年だった愛子はこの二つを、なぜか鮮明に覚えている。
中学三年だった弟の康一(25)は友人宅で食事を済ませ、午後八時ごろ帰宅した。母の潤子=当時(42)=に「今日、震度1の地震があったで」と言われ、「ふーん」と生返事をした。父の修=同(43)=は晩酌で酔い、こたつで寝ていたような気がする。
当たり前の日常があった。
翌十七日の明け方、康一は尿意で目を覚ます。寒い。でも、トイレに行きたい。ぐずぐずしていると遠くから「ゴゴー」と奇妙な音が聞こえた。タタタタと机の上のものがざわめく。ん?
静けさと日常を破る最初の一撃が、下から突き上げた。
あの揺れを、二人はうまく表現できない。
「長かった。前後左右、むちゃくちゃに振り回された」と康一。「どんと落下した」と愛子。
二階の自室で寝ていた二人はとっさに布団の端をつかみ、うつぶせに丸まった。タンスや本棚が激しくぶつかる音が聞こえた。
そして静寂。
「おーい、あねきー」「こうちゃーん」。闇の中、錯乱したまま、姉弟は声で確かめ合った。
「お父さーん、お母さーん」。何度叫んでも、返事はなかった。
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「思い出は美化されるんですけど」。全壊した自宅跡に再建した家の台所で、愛子は語り始めた。
母の潤子は活発な女性だった。PTA役員や卒業式でのあいさつを積極的に引き受けた。ママさんバレーに通い、友人も大勢いた。
家では厳しかった。お笑い番組は「低俗だから」と見せてくれない。ダウンタウンの番組をこっそり見るため、小遣いをためて小さな液晶テレビを買ったほどだ。
よく怒られた。宿題やテレビ、生意気な態度…。その都度、うまく反論できず、床に八つ当たりしながら部屋にこもった。
でも、今は思う。「怒るのにはすごくパワーがいる。子どもが大好きだから怒るんですね」
わが子に同じことをしている自分に気づく。母とのつながりを、母になって知る。
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父の修はほとんど家にいなかった。
大手鉄鋼会社のプラントエンジニア。ベネズエラやイランなど、発展途上国を単身赴任で転々とし、震災の前年からようやく国内勤務になっていた。
お盆と正月には帰ってきたが、おみやげのピラニアのはく製や少数民族の人形は、少しもうれしくなかった。
「ずぼらなオヤジ」だった。パンツ一枚で晩酌のビールを飲む。「日本みたいに平和じゃなくてなー、お父さんのいる国は過酷なんや」。自慢話のように聞こえた。
「初めはいいけど、二、三日したら、そろそろ出張先に帰ればいいのにと思ってました」
そう笑う康一は、国立大学の工学部に進み、今春、IT関連のエンジニアになる。
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阪神・淡路大震災で父や母を失った遺児は五百七十三人。「そっとしておいてほしい」と、多くの遺児や、支える祖父母に告げられた。語ることのつらさを思い、申し訳ない気持ちで帰途に就く。取材はそんな繰り返しだった。
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震災の年、私たちは被災地で懸命に生きる人々の姿を長期連載で伝えた。タイトルは「生きる」。それから十年。私たちはどう生きてきただろう。
遺児となった愛子と康一の<あの日>からの話を続けたい。笑顔の向こうに、触れるとうずく痛みがしまわれていた。(敬称略)
(記事・木村信行、写真・山崎 竜)
2005/1/1