岸本愛子(27)と康一(25)の〈あの日〉の記憶は、ときに重なり、離れていく。
「私はただぼう然としていたから。詳しいことは康ちゃんに任せる」。愛子はそう言うと、長男裕真(3つ)と長女愛海(1つ)のために、冷蔵庫のリンゴジュースをコップに注いだ。
二人の喜ぶ声が、逆に静けさを際立たせる。
◆
姉弟の寝ていた二階は明らかに傾いていた。
「何か、よく分からない言葉を絶叫していたんじゃないでしょうか」と愛子。暗闇で眼鏡のある場所が分からない。手探りで床をはうと、康一が手を引いてくれた。
二階の窓をこじ開ける。いつもは見下ろしていたはずの隣家の壁が目の前にあった。一体、何が起きたのか。まだ分からない。「爆弾かと思った」と康一。
玄関先で近所の人の声がした。「岸本さーん」「愛子ちゃーん」
早く出ないと-。二人は窓から飛び出し、玄関に回る。
自分の家だけに、何かとんでもないことが起きたに違いない。それでも康一にはかすかな期待があった。両親は先に脱出したのではないか。
だが、そこにいたのは近所の人だけだった。父母が寝ていたはずの場所は、玄関ごと二階に押しつぶされていた。
愛子の視力は0・1。ぼやける目で、その輪郭を確認した。
◆
白々と冬の夜が明けてくる。寒いはずなのに何も感じない。「すごい地震やったなぁ」。近所の人がささやく声を聞いて、康一はわれに返る。「これが地震?」
目の前の事態をどうすることもできない。何度も父と母を呼んでみるが、声はしない。余震のたびに、つぶれた一階は震えている。
重たい沈黙が、がれきの下に流れていた。
どれぐらいの時間がたったのか。言われるがまま、二人は近所の家に避難した。「頼りになる身内に連絡しなさい」と言われたが、「高校生だったので、親類の連絡先なんて分からなかった」と愛子。当てもなく電話帳を繰った。
康一は自宅前と避難先を行ったり来たりした。両親が自力ではい出していないか。そんな期待がどこかにあった。
ふと思いついて電話を借りた。
「中学校に電話しようとしたんです。今日はこんな状態なので休みますと言おうとして」
明らかに日常は断ち切られていた。だが、康一はまだ<日常>につながろうとしていた。
正午ごろ、消防団のような人たちが工具を持ってきてくれた。崩壊した一階部分をふさいでいる二階の床を突き破る。
土煙が立ち込めるその奥に、両親はいた。母は布団の上。父は二階につながる階段の下。支柱のように大きな柱が二人の胸に横たわっていた。顔はきれいだった。
周囲の大人たちに促され、康一は父と母の頭を順番に持ち上げた。髪の毛の上からなのに、冷たかった。
命が途絶えた静かな重みが、両手に伝わった。(敬称略)
2005/1/3