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 救急車で病院に搬送された父、船山一雄=当時(49)=は二時間後、遺体安置所になっていた県立高校に運ばれた。

 深夜に近かった。教室の床は凍り付きそうだった。すでに五、六人の遺体が並んでいた横に、父も寝かされた。

 小学五年だった姉の真奈(21)は毛布をめくり、父のおなかに何度もほおを当ててみる。

 いつものにおいとぬくもりがあった。「だから、死んだなんて信じなかった」

 「お父さんは強いからきっと生き返る」と信じていた小学四年の弟、祐二(20)は、ストーブのある部屋と安置所を何度も往復し、父が目を覚ますのを待った。

 だが、起きない。

 父の体の周りにはドライアイスが敷き詰められていた。夜が深まる。青白い蛍光灯が室内を照らす。廊下からのぞくだけでも、中が冷たくなっていくのが分かった。

 二人は怖くて近づけなくなった。

    ◆

 父は本当に亡くなったのか。

 大切な人の死をどう受け入れるかは、心のケアの大事なプロセスだが、姉と弟の受け止め方は違った。

 翌日か、翌々日だったろうか。祐二は安置所の世話をしていた大人が交わす言葉を聞いた。

 「もうドライアイスがない。このままやと腐るで」

 そのとき、「ああ、もうあかんのや」と理解する。一方、真奈はどうしても父が死んだとは思えなかった。「だって、冷たくなってからは触ってないんです」

 真奈はその後、何度も同じ問いを繰り返す。そして、いつしか、死の受容をあきらめる。

 「お父さんはどこかで生きている。そう思わないと、私が生きていけなかったんだと思います」

    ◆

 大黒柱の一雄を失った家族三人の生活は、急激に不安定になる。

 父と同じ全盲の母、静子(53)は友人を頼り、姉弟を連れて大阪市に避難する。三月末、簡単な葬儀を済ませ、真奈と祐二を同市内の小学校に転校させた。

 やっと手に入れたマイホームは全壊、診療所も失った。そして、ボディーブローのように姉弟にダメージを与えたのが日々の食事の変化だった。

 震災前。食卓にはいつも母の手料理が並んでいた。「スパゲティ、カレー、ごはんとみそ汁…。凝ってはいないけど、おいしかった」と真奈。

 しかし、お金を稼がなければならない。母は針灸(しんきゆう)師の資格を生かし、大阪や阪神間の診療所や健康ランドでマッサージのアルバイトを重ねた。

 その間、ボランティアの付き添いで神戸の自宅に戻り、片付けにも精を出す。「私もパニック状態でした。子どもたちに気を配る余裕がなかったんです」と静子。

 真奈と祐二に声を荒げることが増えた。

 「お母さんは目が見えないのに仕事に行ってるんだから、ちょっとぐらい手伝って!」「お父さんがいないと、もうごはんを作る気がせんわ」

 今の真奈は、懸命に生活を支えようとしていた母の苦労が分かる。が、当時はただ悲しかった。

 「お母さんはお母さんやん」

 祐二はコンビニ弁当や外食でしのいだが、真奈の食事はリンゴばかりになる。

 徐々に、心と体がむしばまれていく。(文中仮名、敬称略)

2005/1/10
 

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