神戸・住吉にあった住友吉左衛門本邸。阪神大水害で大きな被害を受けた(1938年ごろ、住吉歴史資料館提供)
神戸・住吉にあった住友吉左衛門本邸。阪神大水害で大きな被害を受けた(1938年ごろ、住吉歴史資料館提供)

 神戸市東灘区の住吉、御影エリアは明治から昭和にかけ、日本を代表する資本家ら富豪が住む大邸宅街だった。戦前から30年余りこの地に住んだ武藤治太さん(78)=ダイワボウホールディングス最高顧問=は、当時の記憶を基に住宅地図を再現し、雑誌のコラムや講演などで紹介している。「現代の高級住宅地といえば東京の田園調布などが有名だが、住吉・御影は桁違いのスケールだった」と振り返る。

 住友財閥、野村財閥、久原財閥、日本生命保険…。武藤さんが再現した地図には、日本経済を牽引した財閥や大企業のリーダーが名を連ねる。

 武藤さんも生後間もなく、鐘淵紡績(後のカネボウ)中興の祖と呼ばれた祖父武藤山治が住吉に構えた邸宅に移った。往時のたたずまいが今も目に浮かぶ。

 「敷地が1万坪(3万3千平方メートル)以上の邸宅もあり、洋館や日本家屋が意匠を競い合っていた。巨大な松林も印象に残っている」と武藤さん。鮮明な記憶を記録にとどめようと、約1年半前に地図を作成した。

 住吉・御影での邸宅建築は、1874(明治7)年の住吉駅開業がきっかけ。明治末期には、住吉歴史資料館の内田雅夫さん(67)は「住民が田畑などを提供し合って邸宅を誘致した動きと、宅地開発のパイオニアである阿部元太郎(後の日本住宅社長)の事業が相まって、富豪たちが次々と本邸を構えた」と話す。

 当時「日本一の長者村」と称された大邸宅群は、1938(昭和13)年の阪神大水害で大きな被害を受けた。「物心ついたころも、住吉川沿いの宅地には濁流で流されてきた岩がごろごろしていた。お化け屋敷のような状態になった建物もあった」と武藤さん。追い打ちを掛けたのが、45(同20)年の空襲。武藤家でも著名な建築家ヴォーリズが手掛けた洋館が焼失した。

 武藤さんは戦後も、焼け残った日本家屋に住み続けた。しかし、周辺の富豪たちは京都などへ次々と居を移した。武藤邸も平成になって解体され、マンションに替わった。現在も残る邸宅は、旧乾新兵衛(いぬいしんべえ)邸、旧弘世助三郎(ひろせすけさぶろう)邸(現蘇州園)など数軒にとどまる。

 「かつては小磯良平や林重義といった画家がアトリエを構え、観音林倶楽部(くらぶ)という社交場もあった。阪神間モダニズムの中心地として全国に影響を与えたことを伝えたい」と武藤さんは話す。

 住吉・御影に関する武藤さんのコラムは、季刊誌「大阪春秋」(新風書房刊、1080円)の158号(2015年4月)、159号(同7月)などに掲載された。新風書房TEL06・6768・4600

(田中伸明)