神戸開港から間もない、明治初年にさかのぼる花街・福原(神戸市兵庫区)。今では風俗街との印象が先立つが、かつては唄や三味線などで客をもてなす「芸者」の町でもあった。宴席に興を添えた女性の数は、最盛期で約千人を数えたと伝えられる。戦災、売春防止法施行、バブル崩壊、阪神・淡路大震災…。時代の波と共に、お座敷遊びが廃れゆく中、花柳界の風情を今に伝える“最後の福原芸者”小広さんの案内で、往年の福原の姿をしのんだ。(千葉翔大)
午後2時。福原桜筋沿いにある金刀比羅宮神戸分社の前に、小広さんはいた。落ち着いた草花模様の着物に、きりりと締めた黒地の帯。きれいに髪を結い上げた小粋なたたずまいに、記者の背筋もぴんと伸びる。
小広さんは長崎県出身。中学卒業後、家族に仕送りをするため、憧れのあった花柳界で働くことを選んだ。神戸に移り住み、半世紀以上にわたり、踊りなどの芸事を座敷で披露する傍ら、15年ほど前からはスナックも経営してきた。
■遊郭
湊川河口の高浜新田に開業した福原遊郭が、鉄道敷設のため現在地に移転したのは1871年。「福原遊郭沿革誌」(1931年)には、31年時点で1320人の遊女がいたと記されている。
「遊女で最高位の太夫さんが町を練り歩く『花魁道中』があったそうよ」と小広さん。神戸まつりの前身で33年に始まった「みなとの祭」では呼び物の一つで、前結びの豪華な帯に高げたを履き、「八」の字を描くようにしゃなりしゃなりと歩く太夫の姿に、見物客が殺到したという。
■検番
こんぴらさんを出発し、福原桜筋を歩く。目指したのは、小広さんの思い出の場所だ。
「あれ。どこだったかしら」。5分ほど歩いたところで、小広さんがきょろきょろと辺りを見回す。
「ここだ! 景色が変わって分からなかった」。視線の先には、4階建て鉄筋コンクリート造りの住宅型有料老人ホーム。この場所にかつて、「福原共立検番」があった。
検番は、芸者の取り次ぎなどをする事務所。小広さんが働き始めた1965年には、約300人の芸者が在籍していたという。
「長唄や日本舞踊の稽古をつけてもらうために、朝5時から予約を取り合った」。小広さんは建物を見つめる。
「ここが玄関で、壁は源氏名を書いた木札で埋まってね」。自然と身ぶりが大きくなる。ただ、小広さんの小さな手が指す先にあるのは、老人ホームのベランダだ。
「一人、また一人といなくなって。気付けば私だけになっていた」。建物から目を離さずに、感慨深げに語る。その目には、在りし日の福原かいわいが映っているように思えた。