阪神

  • 印刷
尼崎市域が攻撃対象となった1945年6月15日の空襲に関する米軍の「作戦任務報告」の写し
拡大
尼崎市域が攻撃対象となった1945年6月15日の空襲に関する米軍の「作戦任務報告」の写し
1945年6月5日朝、B29爆撃機の攻撃を受けて炎上する神戸の街(米軍撮影)
拡大
1945年6月5日朝、B29爆撃機の攻撃を受けて炎上する神戸の街(米軍撮影)
1945年8月6日の空襲で燃える西宮市街(多田克さん提供)
拡大
1945年8月6日の空襲で燃える西宮市街(多田克さん提供)
米軍のB29爆撃機
拡大
米軍のB29爆撃機
神戸新聞NEXT
拡大
神戸新聞NEXT

 びっしりと英語で書き連ねられた資料の束がある。太平洋戦争で少なくとも1354人が亡くなったとされる阪神間の空襲で、米軍が攻撃目標や航空機の編隊を細かく記した公文書だ。表題は「作戦任務報告」と訳され、兵庫県に関する分だけで2千ページに上る。なぜ、人々は空から狙われたのか。市民の証言と共に、地域ごとに異なる作戦の意図を読み解きたい。(竹本拓也)

    ◇    ◇

 尼崎市 479人

 西宮市 637人

 芦屋市 139人

 伊丹市 6人

 宝塚市 83人

 川西市 少なくとも5人

 三田市 5人

 これは市史などにある阪神間の空襲死者数だ。国の調査はなく、戦後76年を経ても被害の全容は分からない。一方で米軍は、人を除く破壊については戦略と成果を詳細に記録していた。

 1944年8月、サイパン、テニアン、グアムなどマリアナ諸島を攻略した米軍はここを拠点として、ついに日本本土のほぼすべてを爆撃可能圏内に収めた。

 45年1月に就任した指揮官は、陸軍少将のカーティス・ルメイ。「皆殺しのルメイ」の通称で日本人に恐れられ、後に起こるキューバ危機(62年)で米空軍参謀総長として旧ソ連への先制核攻撃を大統領に進言し、広島型原爆46万個分の爆弾投下を計画する人物だ。

 就任2カ月後の3月13日、米軍は尼崎を最初に阪神間の攻撃を始める。人々が見上げた空には、あの大型爆撃機「B29」があった。

    ◆    ◆

 「阪神間はあらゆるタイプの攻撃を受けており、いわゆる『空襲の縮図』と言えるまちなんです」

 膨大な米軍資料を読み込んだ尼崎市立歴史博物館の職員辻川敦氏はそう話し、ルメイが主に計画した四つの破壊目標を挙げる。

 一つは、西宮、宝塚市域にあった航空機工場。二つ目は、尼崎市の武庫川河口に立ち並ぶ石油工場群だ。

 そして、都市としての尼崎が三つ目、西宮が四つ目に当たると指摘する。実は隣り合うまちで、作戦の色合いは全く違っていたというのだ。

 米軍はターゲットにする都市を綿密に決めていた。

 人口約33万人だった尼崎は「5大都市」の一つ、大阪の付随とみなされた。地続きに阪神工業地帯を形成するとして、米軍は戦略上の重要性をこう記す。

 「神戸と大阪に電力を供給する大火力発電所群がある。工業の中心地であり、鉄鋼、電気製品、機械を生産し、南西には巨大な製油所がある」

 一方で当時、人口約13万人の西宮は「中小都市」と位置づけられた。大都市破壊の後、工業地があるかどうかを問わずに全国137都市の市街地と住民を標的としたのだ。

 作戦はドイツ空軍がスペイン内戦(37年)で掲げた思想にならっていた。「一般市民を総力戦を担う敵とみなして攻撃することで継戦意思を奪う」

    ◆    ◆

 戦前から尼崎市に暮らす関山光司さん(85)は6月の空襲直後、疎開先から急いで自宅に戻った時の衝撃を今も忘れない。

 一部の神社や寺の門だけを残し、自宅を含めてすべての建物が焼き尽くされたまちに、丸焦げになった同級生の遺体を見た。

 「なんでここだったのか…」と思わずにいられなかった。

 地上にいた市民の目線と共に、空からの攻撃を再現する。

阪神戦後76年
阪神の最新
もっと見る
 

天気(10月29日)

  • 20℃
  • 13℃
  • 10%

  • 18℃
  • 12℃
  • 20%

  • 21℃
  • 12℃
  • 0%

  • 20℃
  • 11℃
  • 10%

お知らせ