1945年6月15日午前8時半すぎ、爆撃機「B29」の511機もの編隊が紀淡海峡を抜けて大阪湾に入り、兵庫県尼崎市に迫り来る。
当時19歳の淀川トシ子さん(95)は杭瀬地区で製鋼関連の軍需工場に出勤し、作業を始めたところだった。空襲サイレンを聞き、「またか…」と工場敷地内の防空壕(ごう)に向かいながら、晴れ渡った空をあおいだ。
翼長43メートル、全長30メートルの銀色の要塞(ようさい)が、南の空にびっしりと張り付いている。真っすぐこちらに向かってくるのを見て思った。
「この一帯に軍需工場はここしかない。間違いなく、狙ってくる」
8時44分。米軍資料によると、計2846・3トンもの焼夷弾(しょういだん)を2時間10分にわたって投下していく。
淀川さんは防空壕の隙間から同僚たちと身を寄せて機体を見上げた。真上でまかれた焼夷弾はそれぞれ真っ青な空でバラバラにはじけ、ソフトボール大の黒い塊になって降ってくる。
しかし、それは工場敷地内に落ちず、北側に大きくそれていくように見えた。
「トシちゃんの家の方から火が上がってるよ!」
誰かが大声で言った。
◆ ◆
淀川さんは軍需工場が無事だったのにもかかわらず、北約1キロ先にある自宅の一帯が焼け野原になったことを長らく「米軍の投下ミス」だと思い込んできた。
しかし、作戦は確実に遂行されていた。米軍は、尼崎を中心に3カ所の攻撃点を設け、その一つが淀川さんの自宅もあった市街地の「直径2・4キロ地帯」だった。狙いは国鉄(現・JR)沿線にある国内随一のプロペラ工場「住友金属プロペラ製造所」だったのだ。
米軍指揮官だったカーティス・ルメイは1月の就任後、火災に弱いという日本建物の弱点に着目して「焼夷弾攻撃」を採用。3月から始めた尼崎空襲は当初、日本軍の対空砲火や空中戦に備えて夜間を狙ったが、日本側の戦闘力が低いと分かると、6月からは午前中に仕掛けるようになった。
この日、4回目となる尼崎空襲は大阪とのセットでなく、尼崎を集中的に狙った最初で最後の攻撃だ。先頭を飛ぶ機体が工場向けの「結束焼夷弾」を落として炎上させ、後続機が延焼力の高い「油脂焼夷弾」を次々に放って大火災を引き起こした。
◆ ◆
では、なぜ淀川さんが働いた軍需工場は狙われなかったのか。それどころか、尼崎市内では「日本石油製油所」や「尼崎人造石油工場」「陸軍燃料廠(しょう)」など武庫川河口に広がる臨海工業地帯も無事だった。
その理由を、米軍文書はこう記す。
「区画が水路や空き地で区切られ、大規模な延焼が期待できない」。つまり、川や海に近いと消火されやすく、作戦効率が悪いと判断された。
「尼崎は大阪の付随とみなされ、結果的に徹底した攻撃を免れた可能性がある」と、市立歴史博物館職員の辻川敦氏は指摘する。
プロペラ工場は66%が壊され、市内の建造物区域の11%が焼き尽くされても、市史などに伝わる尼崎の死者は479人で、同県西宮市の637人に比べて少ないのは、作戦の違いが影響しているという。
米軍はこの日の尼崎空襲をもって「5大都市空襲を完了」とし、西宮をはじめとする中小都市への無差別攻撃に戦術を切り替えていく。
(竹本拓也、久保田麻依子)
■狙われた理由(1)阪神空襲と米軍文書 尼崎と西宮で異なる作戦

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