50年前の1972(昭和47)年5月15日、沖縄は雨だった。27年間の米国統治に終止符を打ち、都道府県の一つになった私の古里だ。大勢の県民が喜びをかみしめながらも、お祝いムード一色とはいかなかった。
沖縄は第2次世界大戦中、国内唯一の地上戦を経験した。本島上陸後、米軍は沖縄の人たちが暮らしていた土地を強制接収し、そこに軍事基地を建設した。
沖縄県石川市(現うるま市)で暮らしていた私の祖母は戦時中、伯父と伯母を連れ、疎開のため兵庫県尼崎市の親類宅に身を寄せた。
尼崎は古くから沖縄出身者が多く住む街だ。第1次世界大戦後の不況から、多くのウチナーンチュ(沖縄の人たち)が神戸港を玄関口に出稼ぎに入り、コミュニティーをつくってきた。私の祖母も尼崎で終戦を迎え、満州からシベリアに抑留された祖父を待った。
2年後、京都・舞鶴港で帰還船から降りてきた祖父は、すっかり痩せこけながら「鉄砲じゃなくて三線を担いで帰ってきた」というのが語りぐさになったらしい。祖父母だけでなく、人々は沖縄を離れても古里に思いを寄せて生きてきた。
終戦から3年後の48年ごろに一家で沖縄に戻り、母も生まれた。家の近くには米軍基地があり、母たちは「米軍のトラックに手を振ると、米兵がチョコレートをくれた」と振り返る。祖母は一時期、米兵向けのアイスキャンディー屋を営んでいたらしい。
復帰前年の71年春、母は東京の大学に進学するために沖縄を離れた。渡航で使用したパスポートは今も大事に保管し「(祖母から持たされた)100ドルを、東京の郵便局で円に替えてもらったさ」と目を細める。
* *
「核抜き、本土並み」を掲げて復帰が実現した沖縄には今も全国にある米軍専用施設の7割が集中する。生まれ育った宜野湾市は、市面積の4分の1が普天間飛行場に占有されている。年配の人たちから「基地がなかった頃の話」を聞くたび、幼い頃はどこか別の土地のような気がしていた。
基地が「当たり前ではない」と気付いたのは2004年8月に起きた沖縄国際大の米軍ヘリ墜落事故だ。私が通った小学校や友人宅にも近く、普段から危険と隣り合わせにあるのだと痛感した。それなのに、沖縄と本土とでは事故を伝えるニュースの扱いも違う。基地のまちゆえの事件や事故も多く、市街地の発展が阻まれているという矛盾に対して、私たちはどう向き合えばいいのだろう。
本土復帰日の神戸新聞には、沖縄の人に向けた「お帰りなさい」のメッセージが並んだ。兵庫と沖縄は「友愛協定」を結び、尼崎を中心に多くの人々が移り住み、今も街には沖縄が息づく。祖父母が暮らした時を経て私も阪神間で暮らし、50年の節目を書くことに不思議な縁を感じている。
全国的な盛り上がりの末に復帰が実現した過去の歴史を重ね、みなさんと考えていきたい。心に太陽を灯して。(久保田麻依子)

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