四間隊の生還者が作った武治さんの位牌を手に、父への思いを語る四間一哉さん=和歌山市西浜
四間隊の生還者が作った武治さんの位牌を手に、父への思いを語る四間一哉さん=和歌山市西浜

 姫路城を東に望む名古山霊苑(兵庫県姫路市名古山町)の一画で、御影石の慰霊碑が陽光を受け白く輝く。表面には「ビルマ戦線 つわもの四間(しけん)隊の碑」の文字。太平洋戦争中の1943~45年、ビルマ(現ミャンマー)の戦地などで亡くなった同隊の隊員154人を祭る。

 隊の正式名は「日本陸軍第54師団歩兵第111連隊第2中隊」。姫路で編成され、兵庫県出身者が多くを占めた。組織を率いた陸軍大尉・四間武治(たけじ)隊長の姓にちなみ、隊員は自らを「四間隊」と呼んだ。同隊は日本兵約19万人が戦死したとされる「ビルマ戦線」に赴き、大半が命を落とした。

 慰霊碑は、ほぼ全ての隊員の三十三回忌に当たる77年に完成した。隊長武治さんの長男一哉さん(87)=和歌山市=らが建立に尽力したという。

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 時計の針を81年前の春に巻き戻す。

 43年3月上旬、国鉄姫路駅前のみゆき通りに勇ましい軍歌が鳴り響く。武治さんら四間隊の隊員が、出征のため駅へ向かって行進する。沿道では国旗が揺れ、「元気で帰ってこいよ」と激励の声が飛んだという。

 当時5歳の一哉さんは母つたゑさんに抱かれ、人だかりの中から様子を見ていた。突然、群衆からつたゑさんが飛び出し、さやから抜いた軍刀を前に掲げて進む武治さんに駆け寄った。

 「最後だからこの子を抱いてやって」。一哉さんを胸に抱えたまま呼びかける。「危ない」と叫んだ武治さんの軍刀の刃は、つたゑさんの右腕の内側をかすめた。傷口から血が流れた。

 母子はそのまま、広島の宇品港へ隊員を運ぶ列車を見送った。武治さんは車両の連結部に立ち、まっすぐ姫路の街を見つめていた。

 自宅に帰ると、つたゑさんは右腕の切り傷をいとおしそうに何度もなでた。1週間ほどして傷が消えた後も腕をさすり、独りごちた。「もっと深く傷をつけてくれたら良かったのに」

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 四間隊は宇品港から船で南方へ向かった。日本が占領したインドネシアで訓練を積み、44年3月にビルマとインド国境の要衝とされたアキャブ(現シットウェ)で防衛任務に就いた。

 45年に入ると英印軍との戦闘が激化し、武治さんを含む隊員154人が戦地で死亡した。生きて帰国できたのはわずか14人。残る十数人の消息は今も分かっていない。

 終戦から半年がたった頃。ビルマから生還した隊員の一人が一哉さんら家族を訪ね、部下に指示しながら銃弾に倒れた武治さんの最期を知らせた。遺骨や遺品は何もなく、つたゑさんは涙ながらに憤った。「小指の一本も持って帰らなかったんか」

 隊員の手には武治さんの名が彫られた木製の位牌(いはい)があった。生き延びた隊員たちが思いをはせ、ビルマの戦地で手作りしたという。

 位牌は80年近くたった今も一哉さんが大切に保管する。「故陸軍大尉 四間武治之霊」。位牌は色あせず、彫られた一つ一つの文字もはっきりと読み取れる。「隊員にここまでしてもらえた父の人柄が伝わってきます」。一哉さんは表情を崩した。

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 四間隊隊員の遺族らは毎年5月に集まり、犠牲者をしのぶ。戦後79年の夏、関係者らの思いをたどった。(成 将希、田中宏樹)

【ビルマ戦線】太平洋戦争で、イギリス領ビルマ(現ミャンマー)を制圧した日本軍と、奪回を目指す連合国軍との戦い。インド北東部の都市インパール攻略を日本陸軍が目指した、最も過酷な戦いとされた「インパール作戦」も含まれる。四間隊が参加したのは第2次アキャブ作戦。インパール作戦に向け、イギリス軍を引きつける狙いがあったとされる。