子どもの頃に受けた虐待について語る神戸市出身の島田妙子さん=大阪市内

子どもの頃に受けた虐待について語る神戸市出身の島田妙子さん=大阪市内

 4月のテーマは児童虐待です。神戸市出身の会社社長、島田妙子さん(52)=大阪府=は、小学生から中学生にかけての約6年間、父と継母からの虐待に苦しみました。当時のつらい記憶や救ってくれた中学校の恩師のことなど思いを語ってくれました。

 -子ども時代のことを。

 「幼稚園年長で両親が離婚し、兄2人とともに児童養護施設に預けられました。その後、再婚した父に引き取られましたが、継母が弟を出産した頃から虐待生活が始まったんです」

 「なんであんなんなったんかな…。父も継母も人相が変わり、だんだんひどくなって。熱いアイロンを近づけられたり、殴られたり。でも泣きませんでした。泣いたら、倍されるから。お風呂のお湯に頭をつけられて息ができず、『死ぬんや』と思ったこともあります。その時は小兄ちゃん(次兄)が父につかみかかって止めてくれました」

 -当時の気持ちは?

 「最初のころは『父ちゃんどうしたん?』って。小学校高学年になると『無』になりました。無表情、無反応。何も考えたくありませんでした。先生に言うとか…ないですないです。言ったらえらいことになると思い、言いませんでした」

 -神戸市内の中学2年の時に転機が。

 「ガリガリで髪の毛はぼさぼさ、あざもあった私に、10円玉10枚と自宅の電話番号のメモを渡してくれた先生がいました。当時、多くを語らない私に、先生は『親も救ったらなあかんのちゃうか』と言ったんです。先生は親に怒りながらも、こんなことをしてる大人も助けなあかん、って。それを聞いて、私は優しかったころの父を思い出し、ほんまのことを言いました」

 「先生は父と継母を呼んで『親子でもあかんもんはあかん』と。私は施設に入り、虐待生活は終わりました。これがもっと早かったら良かった。虐待を受けている子どもに伝えたいのは、信頼できる大人に伝えてほしい、ということです」

 -今は体験を全国各地で語っていますね。

 「生きてて一番幸せなのは、自分の本音や思いを言葉にできる環境があることじゃないですか? 小兄ちゃんは40歳で白血病になり、亡くなりました。命は一つで人は死ぬ。私は生きてるうちに、自分の思いを言葉にして生きていこうと思ってるんです」

(聞き手・中島摩子)