得意のカメラで航空自衛隊のアクロバットチーム「ブルーインパルス」を撮影した一枚を見せる青山進さん=明石市相生町2、神戸新聞明石総局

得意のカメラで航空自衛隊のアクロバットチーム「ブルーインパルス」を撮影した一枚を見せる青山進さん=明石市相生町2、神戸新聞明石総局

視野欠ける障害も「個性」

 今月は「見えにくさ」をテーマに、視覚障害がある青山進さん(70)=神戸市=に聞きました。遠近感がつかめず、幼い頃は友人との付き合い方に悩んだことも。大人になって、目の病気である「黄斑(おうはん)変性」と分かり、その後は時間がたつごとに視力が低下しました。今は視界の中心がほとんど見えません。これまでの経験や病との付き合い方を教えてもらいました。

 -自覚したのはいつ。

 「20歳の頃、初めて眼科医に『黄斑変性かも』と言われました。私が子どもの頃の遊びと言えば、野球やドッジボールが中心。でも打席に立てば空振り三振ばかりで、遠近感が分からないから飛球をうまく捕れません。振り返れば視野が欠けていたので、速いボールも体に近づいてきてやっと見えるという具合です」

 「『どんくさい』というイメージを持たれ、友人たちとも距離ができました。帰宅は一人で、昼休みは図書室にいました。でも、いじめっ子から全速力で逃げたことで足が速くなったり、読んだ本の知識が高校時代の授業で役立ったりしたんですけどね」

 -日常生活への影響は。

 「初めは視力も1・0~1・2あり、実感しませんでした。もともと写真が好きで、定時制高校を卒業した後は神戸でフィルムを現像する会社に勤め、20代後半で地元に戻りました」

 「地元では土木関係の資機材の販売や修理を請け負う会社で働いたのですが、30代から50代にかけて視力は少しずつ落ちました。若い頃は気力と体力でカバーできたんですけどね…」

 「長らく資機材の修理を担当しましたが、40代後半になって作業もスムーズに進まなくなり辞めました。地方は車がないと生活できませんし、視覚に障害のある人同士が集まる場所なんてほぼなかった。それからは苗の植え込みや剪定(せんてい)の収入で生活しました。60歳になる前に身体障害者手帳を取り、支援施設が充実する神戸に戻りました」

 -視界はどんな状態。

 「両目で0・01ほどで、真ん中がぽっかりと見えません。白杖(はくじょう)は人が少ない場所では持ちませんが、例えば大阪など人通りが多い場所には、自分が視力が悪いと伝えるために持っていきます」

 「法律をはじめ、障害がある人を取り巻く環境整備は一見進んでいますが、実際はまだまだです。街中では白杖を蹴飛ばされるし、平気で点字ブロックの上に物が置かれています」

 「今、通勤はバスを2回乗り継ぎ、徒歩を含めて片道約1時間かけています。バスの案内板が見えないので、運転士に行き先を聞いて確認します。聞いているうちに乗るべきバスが出発してしまった、なんてことは何回もありました」

 -世界パラ陸上では、撮影ボランティアを務めた。

 「カメラだけはずっと続けていました。40代後半からプロのカメラマンが主宰する写真クラブに通いました。また、ブラインドテニスや、音の鳴る球を転がして打ち合うサウンドテーブルテニスなどに選手として参加しています。2019年のラグビーワールドカップでは、ブラインドラグビーの日本代表に選んでもらいました」

 「人生は99%が嫌なことだけど、残りの1%を楽しむんです。周りから『視覚障害者』と決め付けられることもあるけれど、それぞれに個性がある。黄斑変性という病気も、私自身の個性だと受け止めています」(聞き手・千葉翔大)