事故で片腕を失ってからの体験を語る伊藤真波さん=伊丹市内

事故で片腕を失ってからの体験を語る伊藤真波さん=伊丹市内

仕事や競技の挫折も糧に

 交通事故で片腕を失い、リハビリを経て義手の看護師になり、競泳でパラリンピックの舞台に2度立った伊丹市の伊藤真波さん(41)に話を聞きました。不屈の歩みに見える半生も、仕事や競技で思うようにできない自分に悩みを抱き、もがいたそうです。現在は義手でバイオリンを演奏する伊藤さんは「小さくても目標を立てることが希望になる。頑張り続けてしんどくなるときは自分に言い訳してもいい」と語ります。

 -静岡県で看護学生だった時に事故に遭った。

 「当時20歳。バイクでトラックと衝突しました。手術を受け、重傷の右腕は激痛を伴う治療の末に、切断。絶望です。恋愛も結婚も看護師になる夢も。病床から女子大学生の姿が見え、そこには戻れない光景として忘れられません」

 「泣いて自暴自棄になる日々でしたが、面会に来てくれた専門学校の先生は『学校で待っています』と言ってくれて。胸に刺さりました。生きる希望というものが、いかに必要か。私は再び看護師の夢を持ち、専用義手を作るために神戸市西区の兵庫県立リハビリテーション中央病院(県リハ)に入院しました」

 -神戸でのリハビリも大きな転機に。

 「同じような苦しみを共有した患者仲間は心の支えです。入院中に見た車いすバスケの強さにも驚き、自分も競泳を始めました。昔からの知人がいる地元では、『かわいそう』と気遣われるのが惨めな気がして障害を隠そうとした時期もありました。でも神戸では、片腕がない私として自然に受け入れてもらえて、気が楽になったんです。看護師になったら働いて恩返しをしようと決め、実際に神戸の病院に就職しました」

 「患者さんと触れ合い、元気になっていく姿を見るのは本当に喜びでした。ただ、患者さんを抱えて移動させるケアなど、義手では難しい仕事があるのも現実。当初は看護師として自信が持てず、悩みました」

 -働きながら競泳にも打ち込んだ。

 「仕事に挫折も感じる中、違う世界を持つことは支えになりました。パラリンピックは北京、ロンドンの2大会に出場。同僚や患者さんの応援がすごく心強かった。逆に、競技でけがや成績不振で行き詰まり、看護の経験を積むことで自信を保てた時期もあります。仕事と競技の両輪に救われたのかもしれません」

 「バイオリンもその一つ。子どもの頃、お母さんに聴かせるのが目標で始めたのですが、県リハの先生たちが専用義手を製作してくれて。競泳で重圧を感じた時期もレッスンが癒やしになり、引退後は講演活動で演奏を披露しています。私は物事にのめり込むタイプですが、それだけではしんどくなることもある。息を抜き、自分に言い訳ができることも必要ですよね」

 -現在は3人の娘の母。

 「片腕がない母がどう見られるのか心配したことも。でも、子育てをするのは周囲のママさんたちも同じで、自然と助けてくれて。障害は隠さず、堂々としようと改めて思いました。助けに感謝しながら、自分もどこかで恩返しを。娘たちにもそう伝えています」(聞き手・岩崎昂志)