蓮如上人像
蓮如上人像

 日本の仏教の中で最も多くの信者を持つ宗派、浄土真宗。その中興の祖とされる蓮如上人は、5人の妻との間に27人の子をもうけたと伝えられています。その長男である順如上人は、蓮如の良き補佐役であり後継者でした。本願寺が衰退していた時期、足利義政が酒の席で裸踊りを命じた際、順如は本願寺再興のため自ら裸になり、見事な舞を披露しました。これが義政に称賛され、以後、あちこちで裸舞いを所望されることになったそうです。しかし、順如は酒好きがたたってか、文明15(1483)年5月に亡くなります。その年の8月22日、山科本願寺が落成しました。

 順如の死後、蓮如は心の傷を癒やすため、また一大事業を終えた安堵(あんど)感から、有馬温泉を訪れることを決めました。8月29日の早朝に山科を出発し、南に下り、宇治川を船で下り、高槻の出口御坊で1泊。翌日、西に向かい、茨木、池田、猪名川を通り、宝塚を経て生瀬の渡しを舟で渡り、急な坂道を越えて船坂にたどり着きます。あと1里で有馬温泉と聞いて喜び、一気に有馬の御所坊にたどり着き、「岩坂や七坂八たうげこえすぎてありまの山の湯にぞつきけり」と詠みました。「さかこえてゑにし有馬の湯舟にはけふぞはじめて入ぞうれしき」とも詠み、温泉に入った後は強行軍の疲れから前後不覚となり、ぐっすりと眠り込んだと記されています。

 最初の1週間は御所坊でゆっくり療養し、次の1週間は温泉寺を訪れ、僧侶たちと会話を楽しんだと言われています。有馬を離れる際には「日数へて湯にやしるしの有馬山やまひもなをりかへる旅人」と詠んで温泉の効能をたたえました。

 帰路も往路と同様に七坂八峠を越え、船坂を過ぎたところで紅葉の始まりに感動し、その後、生瀬を過ぎ宝塚辺りでにわか雨にあい、1泊しました。翌日は往路とは異なって南に下り、昆陽寺の近くを通り、塚口で一休み。その地には塚口御坊や弟子の常西が開いた西性寺もあります。その後、さらに南に下り、尼崎を過ぎて神崎まで進み、屋形船を仕立てて宴会を開いたそうです。神崎川で1泊した後、高槻から船に乗り、出口御坊で2泊、翌日は淀川をさかのぼって伏見に到着。そこで山科から多くの門徒たちに迎えられ、山科本願寺に帰還しました。

 この一連の旅は「蓮如上人の有馬紀行」として知られ、単なる温泉旅行ではなく、布教を兼ねた旅であったとも言われています。(有馬温泉観光協会)