有馬の伝統工芸品として親しまれている有馬筆
有馬の伝統工芸品として親しまれている有馬筆

 安土桃山時代、江戸時代を振り返りますと、有馬温泉は豊臣家から徳川家に支配者が変わっても、その変化をうまく乗り越えながら繁栄を続けてきました。

 戦国の世が終わり平和な時代になると、武士の力は次第に弱まり、町人や商人の力が大きくなっていきます。江戸が政治の中心として栄える一方で、大坂は「天下の台所」と呼ばれる日本最大の商業都市として発展しました。大坂の近くに位置する有馬温泉も「有馬千軒」と呼ばれるほど発展していきました。

 有馬では温泉だけでなく、文化や産業も発展しました。湯女(ゆな)や名所を描いた浮世絵が広まり、竹細工や有馬筆などの工芸品も名物として知られるようになります。

 とりわけ筆の技術は高く評価され、1834(天保5)年には、有馬の筆の技術が広島県熊野町の佐々木為次(ためじ)に伝えられました。現在、化粧筆として世界中で人気のある熊野筆も、その源流の一つが有馬の筆の技術にあるといわれています。

 当時の大坂には流通の中心として全国から米が集まり、「天下の台所」と呼ばれるように大きく発展していました。堂島米市場では米の売買が盛んに行われ、世界初の先物取引が行われていたことでも知られています。まさに大坂は、日本の経済を動かす中心地でした。

 しかし、このような繁栄の時代の中で、大きな危機が訪れます。冷害や洪水などの天災が続き、「天保の大飢饉(ききん)」と呼ばれる深刻な食糧不足が起こりました。米の収穫は大きく減り、価格は急騰し、多くの人々が苦しい生活を強いられます。この影響は有馬温泉にも及び、戸数が半減するほどの打撃を受けたといわれています。

 こうした社会不安の中で起こったのが、37(天保8)年の「大塩平八郎の乱」です。平八郎は大坂町奉行所の元与力で、飢饉で苦しむ民衆を救おうとして蜂起しました。

 しかし、反乱は半日ほどで鎮圧され、大坂の市中の約5分の1が焼ける大火となりました。平八郎はその後、潜伏しますが、最終的には追い詰められて自決します。

 また、平八郎に切腹するよう説得することを命じられていた伯父の大西与五郎は、病気療養中であったため説得の機会を逸してしまいました。

 与五郎は、謀反人の親族としておとがめを受けるのではないかと恐れ、有馬まで逃れてきたようです。そしてこの有馬で捕らえられたと「有馬温泉史」に記載されています。

 この出来事は、有馬温泉もまた当時の社会の大きな動きと無縁ではなかったことを示しています。(有馬温泉観光協会)