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播磨造船所のドックで全面改修を終えた図南丸。住民たちが小旗を振る中、進水した=1951年10月(相生映像アーカイブ提供)
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播磨造船所のドックで全面改修を終えた図南丸。住民たちが小旗を振る中、進水した=1951年10月(相生映像アーカイブ提供)
相生に曳航されてきた第三図南丸=1951年4月(相生映像アーカイブ提供
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相生に曳航されてきた第三図南丸=1951年4月(相生映像アーカイブ提供

 明治の終わり、瀬戸内の漁村だった兵庫県相生市に、船を建造、修繕する施設「船渠(せんきょ)」(ドック)が完成した。「わしらのドック」。住民たちはそう呼んで、誇りにしたそうです。以来、数々の船を建造し、昭和30年代に年間の進水量で世界首位に立った。造船の町の原点であるドックの完成から間もなく110年。播磨造船所、石川島播磨重工業など造船会社名は変わり、現在はJMUアムテック(相生市相生)がドックを構える。そんなドックと町の歩みを紹介します。(段 貴則)

 「人生で一番の思い出。相生で進水式があるたびに地元は盛り上がったけど、あの日の光景は格別。今も忘れられない」

 JMUアムテックの前身・播磨造船所のドックの対岸に暮らす女性(79)は、昨日のことのように心を躍らせる。敗戦国日本が、サンフランシスコ講和条約に調印した1カ月後の1951年10月18日。万国旗で飾られた巨船が、造船所ドックから相生湾へとゆっくり進水した。女性は自宅前に下宿していた「船長さん」の計らいで、母や弟と甲板から町の様子を眺めていた。

 当日の神戸新聞夕刊や新播磨新聞には、学生5千人や住民がこぞって小旗を対岸で振ったとある。船体からテープが風になびき、万歳の声、汽笛、打ち上げ花火が湾内に響いた。敗戦で大型船の新造が禁じられ、町の火が消えかかっていた相生。再び造船の町として歩み始めた日だった。

 進水したのは捕鯨船団の母船「図南(となん)丸」。戦後の食糧不足を解消するため、南氷洋捕鯨用の大型船が必要だった。戦争で大型船の多くを失い、建造も認められない中、南太平洋トラック島沖に眠る「第三図南丸」に白羽の矢が立った。51年、播磨造船所が引き揚げからドックでの改修を担った。

 第三図南丸は戦争末期、爆撃を受け、海底40メートルに沈没。引き揚げに成功しても日本まで曳航しなければならない難事業。保険会社が保険引受を断ったほどだ。

 播磨造船所が社運を懸けて相生へ曳航した沈没船の姿は、「海の魔城」と呼ばれるほど、さびて赤茶け、無残な鉄の骸(むくろ)だった。

 その姿を見て、大型船の建造から遠ざかっていた造船所の労働者たちは、腕が鳴った。第三図南丸の完全な図面が残っておらず、不備な部分は実測して図面をそろえた。連日2千人超が、昼夜を問わぬ突貫工事に汗を流し、クレーンの奪い合いが起こるほど現場は熱気にあふれていたという。

 播磨造船所の年間売り上げの半分に相当した大事業は、新鋭船として図南丸をよみがえらせ、技術の高さを国内外に示した。図南丸の進水時に乗船した女性の父も当時、造船所勤務。「図南丸の工事に父も携わったはず。一緒に乗った弟も造船所に入り、私の夫も姉の夫も造船所で働いた」と誇らしげだ。

 図南丸の進水時、対岸で旗を振った児童の中には、この女性の同級生の男性(79)もいた。

 「図南丸完成に合わせて作られた『南氷洋捕鯨の歌』は今でも歌える。歌える人は相生に多いんじゃないかな」。図南丸は毎年、相生で捕鯨船団を組んだ。初夏になると、南氷洋での捕鯨を終え、神戸でクジラをおろし、相生に寄港した。その雄姿が多くの市民の心に刻まれているという。

【図南丸】前身は日本水産の捕鯨母船「第三図南丸」(約2万トン)。戦時中は軍事輸送を担った。米軍の攻撃を受け、南太平洋に沈んでいたが、日本水産が播磨造船所に引き揚げ、改修を依頼。1951年に新鋭船に生まれ変わり、図南丸に改称。70年まで日本の捕鯨を支えた。関連資料は相生市那波南本町、歴史民俗資料館に展示されている。無料。月曜休館。同館TEL0791・23・2961

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