詩人三木露風の母についての研究本「前進 決定版 碧川(みどりかわ)かたの生涯」が出版された。家父長制が強固だった明治時代に離縁されても看護職として自立し、再婚後は女性運動に身を投じた「赤とんぼの母」。かたの故郷・鳥取県のグループが丹念に資料をたどった労作だ。いまだ確定しない出生年の謎についても考察している。(直江 純)
■諸説ある出生年の謎
「碧川かた研究会」(四井幸子会長)が、没後60年を目標に制作した。A5判196ページで1100円。四井さんらが執筆を分担し、元たつの市(兵庫県)職員の志水豊章さんも龍野時代と北海道時代の章を担当した。
かたは戸籍上、1872(明治5)年10月10日生まれ。死去日は1962(昭和37)年1月14日。満年齢で89歳、数え年で91歳だったことになる。ただ、明治5年は維新後初の「壬申戸籍」ができた年。古い戸籍の正確性には疑問もある。
露風も揮毫(きごう)した墓石には生年が「明治三年」、没年が「九十四歳」と刻まれている。明治3年なら満91歳、数え年で93歳のはず。戸籍と異なる上、同じ墓石ですでに矛盾がある。
そこで「前進」では「明治2年生まれ」説を採用した。再婚後の長男・碧川道夫らが61年に「93歳で存命」などと書いたとし、数えで94歳となって墓石の没年とも一致するとの考えだ。
ただ、記者が調べると、まだ異説が見つかる。死去翌日の神戸新聞記事では「95歳」。同日の朝日新聞では「92歳」。翌16日の同紙に露風らが出した死亡広告は「95歳」とまちまちだ。
「かたが生まれ年の十二支を語った資料があれば決め手になる」と話すのは霞城館(たつの市)の松尾壮典(そうすけ)館長。同館は露風の直筆資料を大量に所蔵し、再検証を進めている。将来、謎は解けるかもしれない。
■多才な子どもたち
かたは当時の龍野町長の次男・三木節次郎と結婚し、操(みさお)(後の露風)と勉の兄弟を産んだが離縁された。東大病院の養成所で学んで看護婦(現・看護師)となり、新聞記者の碧川企救男(きくお)と再婚した。
大正デモクラシーの頃には女性参政権を求める運動に参加。自ら「女権」と題した雑誌も発行した。「碧川かたを朝ドラの主人公にする会」(たつの市)は「ジェンダーフリーを先取りした進歩的な人物」としてドラマ化を目指している。
企救男との再婚後に生まれた1男4女も多才に育った。道夫は戦前から映画カメラマンとなり、技術監督を務めた「地獄門」(53年)は日本初のカンヌ国際映画祭グランプリに輝いた。
三女の芳子は映画監督の内田吐夢と結婚し、無頼な夫を支えた。名作「飢餓海峡」(65年)には道夫も制作に加わっている。
母と同じ看護の道へ進んだ末娘の清(きよ)も、映画界との数奇な縁があった。吉永小百合さん主演の「明日は咲こう花咲こう」(65年)は清がモデルとされる。
記者は偶然、この映画をインターネット配信で視聴。後に経緯を知り、たつののかたファンに吹聴したが、「前進」にはきちんと清との縁が解説されていた。
書籍はネット通販「アマゾン」で購入できる。

-
西播
-
西播
-
西播
-
西播
-
西播姫路文化
-
西播
-
西播
-
西播選挙
-
西播
-
西播
-
西播連載西播
-
西播
-
西播
-
西播神戸
-
西播
-
西播選挙
-
西播
-
西播
-
西播選挙
-
西播
-
西播中学スポーツ中学総体
-
西播
-
西播
-
西播
-
西播教育
-
西播
-
西播文化
-
西播
-
西播
-
西播
-
西播
-
姫路西播
-
西播地方行政
-
西播
-
西播文化
-
姫路東播北播西播明石
-
西播姫路
-
西播
-
西播
-
西播
-
西播
-
西播
-
西播連載西播
-
但馬西播
-
西播
-
西播
-
西播
-
西播
-
西播
-
西播
-
西播
-
西播教育
-
西播
-
西播
-
西播
-
西播
-
新型コロナ神戸姫路西播
-
西播
-
西播東播
-
西播
-
西播連載西播
-
西播
-
西播姫路
-
西播
-
西播
-
西播教育
-
西播選挙
-
西播
-
西播地方行政
-
西播
-
但馬丹波三田阪神姫路西播
-
姫路西播東播
-
西播
-
姫路西播
-
西播
-
西播
-
姫路西播
-
西播連載西播
-
西播
-
姫路西播但馬
-
西播
-
西播
-
西播
-
姫路西播
-
西播スポーツ
-
西播
-
西播
-
姫路西播
-
西播地方行政
-
西播
-
西播
-
西播
-
西播
-
西播
-
西播
-
丹波神戸但馬西播
-
姫路西播
-
西播
-
西播
-
西播