室町時代に起きた内乱「応仁の乱」(1467~77年)で、敵方との交渉に尽力したとされる宍粟ゆかりの武士がいる。現在の宍粟市波賀町を拠点とした中村三郎。赤松氏や家臣の浦上氏の下で活動し、後に越前国を支配した朝倉氏を寝返らせる工作に関わったとされる。神戸と宍粟の2拠点生活を送る郷土史研究家、中村勇造さん(65)が考察をまとめ、神戸史学会が発刊する冊子「歴史と神戸」の6月号で発表した。(村上晃宏)
勇造さんの小論文によると、三郎は鎌倉時代の承久の乱(1221年)の後、武蔵国秩父(現在の埼玉県秩父地方)から来た中村氏の子孫に当たる。
赤松家に仕えた父が応仁の乱の初期の戦いで討ち死にすると、三郎は赤松氏の重臣、浦上則宗の下で働くようになった。浦上と三郎の関係は、中世にあった疑似的な親子関係「寄親、寄子」だったと考えられるという。
加賀国の半分の守護職を務めていた赤松氏は、応仁の乱で東軍(細川勝元側)にくみし、当初は敵だった朝倉氏を東軍に寝返らせた。朝倉氏は、日本海側から京都へ兵士や物資を送る西軍のルートを絶ち、その結果、戦況は東軍優勢に傾いたという。
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研究のとっかかりは一つの疑問だった。細川勝元が三郎に送った文書「感状」には、朝倉氏について三郎の尽力をねぎらう言葉が書かれていた。しかし、肝心の内容が書かれていない。「一体、何に対するねぎらいなのか?」。不思議に思った勇造さんは、さまざまな史料に当たった。
すると、浦上則宗が朝倉氏に出した手紙から、浦上が京都を不在にした間、交渉を担ったのが三郎だったことが判明。勇造さんは「外交交渉を担当する『取次』の役割を務めていた」と指摘する。
朝倉氏への取次の役割をひもとく上で最も参考になったというのが「朝倉家記」。応仁の乱の後、越前国の支配権を巡って起きた訴訟で、朝倉氏側から提出された文書を載せたものだ。そこには朝倉氏から三郎に宛てた五つの文書が含まれ、朝倉氏の上洛(じょうらく)を三郎が差配したことや、朝倉氏が将軍の足利義政に拝謁(はいえつ)する際に三郎が取り仕切ったことに礼を述べていた。
これらを考え合わせて勇造さんは「寝返り工作で、三郎は取次役としての役割をしっかりと果たしたのだろう」とみる。
ただ、三郎が取次という重要な役割を任された経緯は分かっていない。朝倉の家来に三郎の親類とみられる人物がいたため、「親族のつながりを生かせる三郎を起用したのではないか」とも推察するが、今後も調査を続けるという。
勇造さんは「応仁の乱に宍粟ゆかりの武士が関わっていただけで興味深い。戦いを終わらせる一翼を担ったとも言えるのではないか」と顔をほころばせる。
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勇造さんは中村家の子孫に当たるという。子どものころから、作家司馬遼太郎の本を読むなど、歴史が好きだった。仕事は医療福祉関係の仕事を選んだが、定年退職後、大阪市立大学大学院の社会人向け教育プログラムに通い、地域活性化をテーマに学んだ。
そんな時、大阪歴史学会の集まりに参加し、大阪公立大学大学院文学研究科の仁木宏教授(日本中世史)と知り合った。自宅に残る史料には先祖のことが書かれていたが、漢文体なので読めなかった。そこで仁木教授に「先祖の研究をやってみたい」と打ち明けたところ、講義やゼミに誘ってくれた。仁木教授の勧めで神戸史学会の会員になり、初めて小論文を寄稿した。
「埋もれた歴史を掘り起こすことで、地域の誇りの醸成にもつながる」と勇造さん。今後も中村家に関する文献を調べる予定で「『中世波賀物語』というふうに分かりやすく1冊の本にまとめてみたい」と笑顔を見せる。研究意欲はまだまだ尽きない。
【応仁の乱】室町幕府の8代将軍足利義政の後継者問題や、有力守護大名の畠山家と斯波家の家督争いなどが絡んで起きた内乱。幕政の中心を担う細川勝元と山名宗全の抗争となり、細川(東軍)と山名(西軍)に分かれて戦った。室町幕府が衰退し、戦国時代となるきっかけとも言われる。この戦いによる功績で赤松家が播磨、備前、美作の守護に返り咲いている。