被爆した広島の街を、兵士としてくまなく見た画家がいた。養父市出身の故・寺尾知文さん(1917~2000年)。60歳を過ぎてから残した1冊の切り絵文集が戦後80年の今年、復刊された。あの日、画家は何を見て、どんな光景を脳裏に刻んだのか。(長沢伸一)
陸軍の船舶部隊「暁部隊」に所属していた寺尾さんは1945年8月6日、爆心地から数キロ離れた海辺の町にいた。原爆投下後、最も早く救援に入った部隊とされる。
不気味に膨らむきのこ雲が空を覆うのを目撃した。間もなく船で救援に向かう。「進むにつれて、ふわり、ふわり、水面に、死体が浮いていた。少し行くと、もう身動きもできない」。エンジンを止め、遺体をかきわけて川を進んだ。
市街地に着く。黒焦げの死体、防火水槽に頭を突っ込んだまま動かない人、ガラスの破片が背中や腕に刺さった夫婦…。五体満足の人はいなかった。当時27歳。「この世の終末かと、見まがうほどであった」と書いている。
負傷者を運んだ病棟も「この世の終わりの図」だった。服さえ着ていない。寺尾さんは火葬の前に、死者の顔をスケッチした。「どの顔も、青黒くふくれ上がっていて、同じ顔のようにしか描けなかった」
9月初めに部隊が解散し、故郷の養父に帰った。
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戦後、寺尾さんは画家や漫画家として活躍する。児童書の挿絵やリンカーンの伝記漫画なども手がけ、79年にはノルウェー切手国際展で銀賞を受けている。
ただ、長らく原爆や自身の被爆について語ることはなかった。「自分が原爆との関わりを持っているという事実から、ひたすらに遠ざかろうと努めていた」
その考えは戦後30年が過ぎた頃、変わる。「一人の生き証人として、あの地獄図を刻んでおこう」
還暦を過ぎた82年、「きり絵画文集 原爆 ヒロシマ」が完成した。
■転機は、偶然見つけたユーチューブ