5年間のみ稼働し、今なお山の中に残る製錬所跡=豊岡市竹野町東大谷
5年間のみ稼働し、今なお山の中に残る製錬所跡=豊岡市竹野町東大谷

 豊岡市竹野町東大谷の山中に、巨大なコンクリートの建造物がたたずむ。大正から昭和期に金や銀を採掘した「竹野鉱山」の製錬所跡だ。最盛期には300人以上が作業に従事し、周辺も一大集落として栄えたが、太平洋戦争の影響で製錬所は稼働からわずか5年で取り壊された。80年近く過ぎた現在でも、随所に痕跡が残っており、地元住民が「地域の産業遺産」として保存活用を探っている。(丸山桃奈)

 地元の自治組織「中竹野地区コミュニティ」と、「竹野町歴史年表」などによると、竹野鉱山は8世紀に発見された。今のJR山陰線が開通した翌年の1912(大正元)年に、久原鉱業(現JX金属)が同町轟で本格的な採鉱を開始。その後、大量の湧き水が出て採掘が困難となり、26(大正15)年に近くの同町東大谷に主力を移した。

 7カ所の坑口で掘られ、産出された鉱石は、約5キロ離れた竹野駅までトロッコで輸送。貨物列車で姫路・飾磨港へ運び、船で大分県の「佐賀関製錬所」に送って2次製錬をした。竹野鉱山の周辺には発電所や病院、浴場、理髪店、社宅などが並び、300人以上の鉱員と家族が住む「鉱山町」だった。時には映画上映や芝居興行が行われていたという。