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(6)仮住まいが続く オフィス手狭でも我慢
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 巨大なクレーンが、重厚なコンクリートの壁を突き崩していく。

 大正から昭和にかけての近代洋風建築が並ぶ神戸の旧居留地。八階建ての「明海ビル」は一九二一年完成、神戸で最も古い高層ビルとして知られ、旧居留地のシンボルでもあった。

 震災で多くのオフィスビルが倒壊した。拠点を失った企業は、再生の道をどう模索しているのだろうか。「明海ビル」のテナント四十四のその後を追った。

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 航空機部品などを扱う中堅商社、富士インダストリーズは、近くの海岸通のビルに移っていた。

 「ビル探しにどれだけ苦労したか」と、社長の吉川正孝さんは振り返った。

 震災からまもなく、同社は大阪支店と明石の取引先に従業員を分けて営業を始める。吉川さんは被害の軽そうなビルを見つけて飛び込み、オーナーと直談判を繰り返した。だが、一月下旬、すでに各ビルは復興需要を狙うゼネコンなどに押さえられていた。

 ようやく見つかったのは二十件目。明海ビルより五十坪小さい約百坪だったが、その場で手付金を支払った。入居は三月六日。「神戸で創業し取引先も多い。神戸しか考えられなかった」と吉川さんはいう。

 電子部品を扱うベンチャー企業、サンモール電子社長の村上泰雄さんは、伊丹市の自宅二階に仮事務所を置いていた。「この十八日に契約できましてね」と声が弾んだ。移転先は、フラワーロード近くのビル。「ぴったりあう物件はなかなかなかった。賃料は以前の一・七倍になったが、この際文句は言えない」

 支店のあった日立造船は、機能を大阪本社に統合した。「当面、再開する予定はない」と同社。神戸の支店開設は、海運界が隆盛にあった昭和初期の一九二九年。明海ビルの入居時期は不明だが、震災を機にこの伝統は途絶えることになる。

 「うちのテナントは何とか神戸に収まったようだ」。明海ビルを管理する明海興産の第一営業部次長、今井健次さんはリストを手にほっとした様子をみせた。

 四十四のうちレストランなどを除くと企業や船主協会など団体は計三十二。明石や加古川などに移転していた企業は多いが、現在は四社だけ。既に中央区での再開は二十七社にのぼる。結局、「復帰の予定なし」は一社にとどまった。

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 長年続いてきた取引先の存在、販売網、復興需要…。震災直後、ビル仲介業界では「撤退する企業が増えるのでは」と、ささやかれていたが、復帰意欲は強かったともいえる。

 三宮・元町地区全体の主要オフィスビルについて、生駒データサービスシステム(本社・東京)は、現状をまとめている。

 二百四十五棟のうち、およそ四分の一の六十一棟、貸室面積で六万四千二百坪が瞬時に消えた。震災前、ハーバーランドを含む同地区の空き室は二万七千坪、差し引くと、約三万七千坪の不足になった。

 だが、六十一棟のテナント二百三社で、神戸からの一時転出は百三十五社。四月中旬には六三%が神戸に帰っている。急速に復帰が進む状況がうかがえる。

 市外移転中の企業でも復帰断念は一・五%(二社)。その動向は明海ビルのテナントと一致している。ただし、と同社の〓川孝経研究員は付け加えた。「狭い面積で我慢したり、人員を減らした企業も多い」

(注)〓は「たけかんむり」に「及」

1995/4/30
 

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