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(4)配転が決まった 決断を迫られた従業
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 企業の決断は速かった。そこに働いている人たちには、決断の時間はあまりにも短かった。

 一月十七日 震災。
 同二十七日 会社が工場閉鎖を決定。組合に申し入れ。
 同三十日 組合の臨時中央執行委員会。
 二月十二日 組合中央委員会が受け入れ決定。
 三月一日 異動開始。

 神戸市中央区の住友ゴム神戸工場。日本のゴム産業発祥の地で、国内シェア五五%を占めるゴルフボールの唯一の生産拠点だった。震災で、約二万平方メートルの工場は全壊する。

 会社の方針は、本社と研究施設は残すが、工場は閉鎖、そこで働いてきた約八百四十人を白河、名古屋、加古川工場に移すという内容だった。

 「震災を利用したリストラではないのか」「一部移転で済むのではないか」。深夜の中執での、そんな議論を経て、交渉が始まった。だが、会社側は厳しい経営状況を強調し、譲らなかった。

 ゴルフボールの在庫は三カ月分で、生産停止は致命的になる。被害のなかった製造設備を名古屋などに移したが、運搬費は百億円かかる。再建すれば、また移転が必要になる・。

 「雇用確保を考えると、受け入れざるを得なかった」と、北条敏明書記長(36)。中央委員会では、執行部方針に反対はなかった。

    ◆

 退職か、異動か。震災前は転勤とほとんど縁がなかった八百四十人が、決断を迫られる。異動となれば、もう神戸に帰ってくることはほとんどない。

 三月初め、福島県の白河工場と内示を受けた大原茂さん(42)は、四月十一日の転勤間際まで悩み続けたという。

 勤続二十三年。子供の進学で家族は連れてはいけない。「会社を辞めて神戸で働けば」と中学に入る長男は言った。妻や長女は口に出さないが、気持ちは痛いほど分かった。

 「でも、多くの部下が、新たな職場で頑張ろうとしている。操業停止で給料も減った。こちらも頑張らなければやっていけない」

 大原さんが選んだのは、単身赴任の道。結局は約六十人が退職を、残る七百八十人は異動を選択した。「家族のいる三十、四十代が一番迷ったのではないか」と組合は話す。

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 三月二十五日、神戸市会は、川崎重工神戸工場の従業員ら十八人が出していた「商船建造継続を求める陳情」を、審議打ち切りにした。「労使で交渉中の問題」が理由だった。

 同工場は、船台やクレーンなどに被害を受け、会社は商船建造部門の香川県坂出工場への移転を打ち出した。神戸に残るのは、商船の修理や部分建造、高速船、潜水艦の建造だけになる。配転は、同部門約千百人のうち二百四十人にのぼる。

 「単身赴任しかないと思うが、異動になったら退職すると決めた人もいるらしい」と、四十すぎの従業員。職場に不安が渦巻く中、二カ月余りの交渉は、この二十四日、合意に達した。

 「復旧には金も、時間もかかる。受注した商船の建造を遅らせるわけにはいかない」。組合の結論は、住友ゴムと同じ「やむなし」だった。

1995/4/28
 

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