面接の体験を山下太一さん(45)=仮名=は語り始めた。四月の最初の月曜日。知人が紹介してくれた大阪市中央区の会社だった。
「なぜ、前の会社を辞めたのですか」
「営業所が被災して規模の縮小が決まったからです」
「縮小なら残っている人もいるのですね」
少し言葉に詰まると「あなたはなぜ残れなかったのですか」と、たたみかけるような言い方が返ってきた。
「まるで欠落者のように言われた。ほかも回ったけど、営業職はどこもハードルが高い。給料はそんなにいらないんだがな」
山下さんは、神戸市内で営業マンとして医療機器を扱っていた。震災で営業所の入っていたビルは半壊したが、一月二十日から営業を再開。被害調査を兼ねて、顧客の病院を回った。大半の病院は被災し、再開のメドも立たない状態だった。
三月に入って、会社は営業所の人員縮小を打ち出しほかの営業所への転勤と、希望退職の個人面接が始まった。
「共働きで妻の仕事のことがある。子どもの転校もあって、おいそれと転勤に応じるわけにはいかない。職場への愛着はあったが、退職を選ばざるをえなかった」
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震災から三カ月。兵庫県の労働部は、失業の形態が変わりつつある、とみている。
最初に、大量の解雇が出たのは、店がつぶれたサービス業など第三次産業と、工場をなくした零細企業が中心だった。その後、事業が再開し始める。だが、仕事の見通しははっきりしない。転勤、希望退職、出向…。選択を迫られ、職場を去るケースが少しずつ増えているという。
「復旧作業が一段落し、多くの企業が三月期の決算を迎えた。この後、ある程度経営の見通しが立った段階で、人員の整理に踏み切るところが出てくる」と、労働省も今後の動きを警戒する。
震災後、全国労働組合総連合(全労連)が開設したホットラインに、ある工場を解雇された男性が相談を寄せた。
団体交渉を持ち、解雇理由をただしたところ、経営者側からこんなセリフが飛び出した。
「彼は仕事にえり好みがあって、役に立たないと感じていた」
会社の状況は、回復してきているはずなのに、解雇が決まる。「この際」というわけか。実態は指名解雇に近い。全労連地方局幹事の中山益則さんは「被災地の企業は今、生き残るため危機管理体制になっている。その結果、震災を口実にした便乗解雇がひどくなっている」と指摘する。
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四月下旬、神戸公共職業安定所で事務系の仕事を探していた八田伸一さん(38)=仮名=は、三月末で建築事務所を解雇された。
「ごくろうさん。うちも大変なんや」。五人足らずの小さな事務所だったが、アトホームな雰囲気が気に入っていた。いくらかの退職金をもらい、納得ずくで辞めたつもりだった。
「同僚が後で電話してくれた。社長が『あいつはモノ覚えが悪い。新しい人間雇った方が会社のためや』と言っていた、と」
気持ちを整理し、ようやく次の仕事を探す気になって、職業紹介誌をめくっていた。ふと目が留まる。そこに載っていたのは、辞めた会社の求人広告だった。
1995/4/26