神戸市内のある中小企業。親会社の重工メーカーから贈られたという額が、応接室に掛かっていた。「感謝状」とある。何十年も、部品を納入し続けてきた誇りのしるしである。
五十代の社長が現れた。「ついこの間まで、親は『共存共栄』と言うてた。親と下請けが手に手を取り合って栄えていくという意味や」。その言葉が震災後、消えたという。
「共存共栄なんて、私らの思い込みに過ぎなかったのかもしれん」
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神戸製鋼所、川崎重工業、三菱重工業、三菱電機。日本を代表する大企業が神戸を拠点に日本経済を支えてきた。地元経済は、それらの下請け企業などで支えられてきた。その数は、直接取引できる一次下請けが約千社、従業員五人ほどの孫請け、ひ孫請けが二千社を超える。日本の重工業地帯はどことも、こうした産業構造で発展してきた。
その崩壊が震災後、被災地で加速する。下請け企業が多く加盟する神戸市機械金属工業会の会員数を見た。九四年末は、四百七社。今年三月は、三百六十二社。同様に、生産額は四千八百五十億円から三千八百億円へ、マイナス二二%。経費削減が理由で脱会する企業が多い。約二十社が廃業、倒産に追い込まれた。
同会会長で、神戸ステンレス社長の吉川孝郎さんは「被災し、損壊した設備を更新するための借入金などがのしかかった上に、景気後退の影響をもろに受けている」と説明した。
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戦後最悪という九七年以降の大不況は、大企業の屋台骨を揺るがし、下請けの選別へと走らせた。
ある社長は、九七年夏の忘れられない出来事を語った。下請け約百社の社長らを前に、親会社の部品購買担当者が言った。「今後は、価格競争力のある提案型企業にしか発注しない。実績や業種も問わない。とにかく一番安くできる会社に発注する」。決別宣言ともとれる内容だった。
造船不況の要因となった第二次石油危機の七九年。円高不況の八六年。そのたびに、コスト削減が繰り返された。人減らしが続き、下請け企業の倒産が相次いだ。
社長は、こんな言葉も耳にした。「あんた、うちとこだけに頼っとったらあかん。いろんなとこに売り込みにいかな」。一貫して「うちの仕事だけすればええ」だったのが、突然「独り立ちしろ」になる。「復旧が遅れたら切られる」との恐怖感から、設備の修理を急いだ。なのに、今さら何ができるのか。新事業を考える余力もない、と憤った。
この社長に代表される現在の下請け企業の立場を親会社はどう受け止めるのか。川重の小野靖彦副社長は「私たちも海外との競争で厳しい。コスト削減は至上命題。協力会社は今後、『川重一家』という看板だけでやっていけるとは思わないでほしい」と話した。
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先月末、ポートアイランドで開かれた「国際先端技術メッセ」をのぞいた。中小企業に内外の優れた産業技術を紹介し、刺激を与える催しだった。先の社長もいた。企業ブースを熱心に見て回り、山ほどのパンフレットを手にしていた。
こちらを見るなり、照れくさそうに話し掛けてきた。
「まず、勉強や。どんなことがビジネスになるのか、ならんのか。みんないろいろ考えよる。私も見習わんと」
(経済部・山口裕史、布施太郎、社会部・小西博美)=第25部おわり=
1999/11/26