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(2)復興特需はどこへ消えた 大半が大手、県外業者に
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 震災当日、大手ゼネコンの株価は、急上昇した。あるゼネコンは、わずか十日で倍の値を付けた。

 大震災は、裏を返せば、ばく大な復興特需を生み出した。道路や橋、建築物や港湾…。被災地では、約十兆円という戦後最大規模の復興事業が行われた。しかし、それで地元経済が潤った痕跡は見えない。

 事業費はどこに流れ、特需はどこに消えたのか。私たちは、その行方を追った。

    ◆ 

 一九九八年八月。神戸市内の建設会社事務所。社長(52)は、机上の帳簿を前にしゅん巡していた。

 会社の資金繰りは急速に悪化していた。震災直後、急増する解体作業などに対応するため、パワーシャベルやダンプカーなどの機材を購入した。総額五億円。分割払いの期日が迫っていた。

 「復興特需は五年は続く」。それが、業界の一致した見方だった。ところが、官民挙げての急ピッチの復旧工事で、九七年には公共投資は震災前の水準に戻った。当然、会社の収入は減った。一方で、購入機材の支払額は変わらない。少なくとももう一年、同じ水準の仕事量があれば、乗り切れるはずだった。

 見通しは、狂った。

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 公共事業の金が地元の建設会社に流れる道筋は二つある。一つは、大手ゼネコンの下請けになる。もう一つは、自治体発注の工事を直接取る方法だ。しかし、集中豪雨のような復旧工事と、仕事能力の限界とのはざまで、中小が取り残された。

 震災の年の兵庫県内の公共事業は、前年のほぼ倍に当たる約一兆九千六百億円に上った。西日本建設業保証によると、その増加分のうち、八四%を請け負ったのが、資本金一億円以上の大手建設会社だった。

 「大手が下請けに使った業者の多くは、大阪など県外。地元企業はほとんど採用されなかった」。関係者が打ち明ける。

 大手ゼネコンの中には震災後、被災地の営業所を支店に格上げするなど、営業体制を強化したところもある。建設機器のリース会社なども、被災地に続々と支店を設けた。一時期ながら、被災地は復興特需に沸く。あるゼネコン幹部は「ミニバブル」と表現した。

 地元業者に全く公共事業が流れなかったわけではない。

 先の建設会社も、その一つだった。大手ゼネコンからも、自治体からも仕事を請け負い、九五年度の売上高は前年度のほぼ倍に膨れた。しかし、その金は設備投資に消えた。

 社長は二億円分の機材を売りに出したが、三分の一の価格にしかならなかった。マイカーも処分した。その金で支払いをすませた。

 「決断が早かったから、うちは切り抜けられた」
 同業者廃業の知らせを聞くたび、胸がかきむしられる思いになると話した。

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 帝国データバンクの調査を見た。兵庫県内の建設業者の倒産件数(負債額千万円以上)は、震災のあった九五年で九十二件、九六年は百十五件と低い水準だった。一転して、九八年は二百七十二件に激増した。

 復興特需に乗り遅れまいと、設備投資を行った建設会社が、仕事量の減少とともに資金繰りに詰まり、不渡りを出すケースが多いと、同支店はみる。

 「建設業界が地獄を見るのはこれからだ」。信じたくないような言葉が、被災地でささやかれる。

1999/11/18
 

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