見上げると、階段状に補強された斜面の上で重機が動いている。六甲山系の峡谷から住宅街へと流れ出た仁川の右岸。貯水量八万立方メートルの調整池を造る工事が本格化し始めた。
〈外部に対して損害を生じた時には誠心誠意、責任を持って、その損害について補償します〉
着工を前に阪神水道企業団は「誓約書」を、斜面直下の西宮市仁川百合野町と、対岸の仁川町六丁目の両自治会に配った。完成後に起きうる「損害」への補償を明記し、安全な設計や情報公開など六項目を約束した。
文案は同市が作り、立会人として山田知・西宮市長の印もある。異例の対応を市水道局はこう説明する。「市民の安全を最優先するスタンスで仲介した。あんな惨事があった場所ですから」
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一九九五年一月十七日、午前五時四十六分。
激しい揺れが収まって数秒の後、沢村(旧姓・林)香世さん(32)は闇の奥に地響きを聞いた。二段ベッドの下の段で、とっさに布団を頭からかぶった。
壁が音を立てて倒れた。押しつぶされたベッドがジェットコースターのように流された。布団を両手できつくつかんだ。
やっと止まったとき、ベッドの間で身動きできなかった。「お母さん」と、叫んだが、かぶった布団に声がこもった。上の段の妹はどうなったのだろう。
冷気を左足に感じた。がれきをけったら、男の人の声が聞こえてきた。
「だれか、おるん」
三十メートルも流され、砂山となった二軒隣の家の上で救出された。そこまでの記憶は鮮明だ。でも、九年間、それを言葉にはほとんどしなかった。
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地滑りを起こしたのは、一九五五年ごろ甲山浄水場の造成時に盛り土した斜面だった。十万立方メートルとされる土砂が十四戸を破壊した。逃れられたのは香世さんら十人だけ。三十四人が犠牲になった。
地元で「人災」との批判が噴出した。しかし、企業団は「建設当時の資料は残っていないが、法的に問題はなかった」と原因究明に消極的で、被災家屋への補償はしなかった。
そんな企業団への不信と地滑り誘発への不安を背景に、調整池の工事説明会は紛糾し、七回も開かれた。「子どもの同級生が亡くなった。工事はやめて」と、涙ながら訴える女性もいた。
結局、誓約書を“担保”に着工が決まった。「どう反対してもやるというから仕方ない」。不満はくすぶっている。
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私たちは最初、香世さんたちの家の跡地に建った「地すべり資料館」を訪ねた。昨年秋のこと。館内にはジオラマで地滑り対策が紹介され、わかりやすい。地下水を集めるパイプが地中に張り巡らされ、くいがずらり打ち込まれている。国内屈指の対策とされる。
しかし、ここで何が起きたのか、うまく想像できなかった。兵庫県や西宮市、阪神水道企業団でもそうした資料は乏しい。
あの日、埋もれたものは何なのか。私たちは知りたいと思った。
(宮沢之祐、松本茂祥)
2004/1/10