「災害対策につながるなら。それに、助けられたことに感謝したい」
中島敬夫さん(48)は、私たちの取材に応じた理由をこう語った。
地震当日、西宮市仁川百合野町では百人を優に超える住民が、動けない敬夫さんに迫る火をバケツ・リレーで食い止めようとした。また、住民らが持ち寄った消火器は、七十三本に上った。
◆
敬夫さんを最初に見つけ、救出の最前線で活躍した男性(33)は「人が埋まっている」という家族の叫び声を聞き、家を飛び出した。「助けたら、ヒーロー」。それぐらいの気持ちだった。
まさか、数軒先にある幼なじみ、秋山新一郎さん=当時(23)=の家が、土砂の山になっているとは思いもしなかった。
慌てた。
新一郎さんの寝室の位置も知っていたから、山に登り、掘り出そうとした。人の気配に「秋山か」と叫ぶと、そこに敬夫さんがいた。
右足首に柱が食い込んでいるのを見て、絶望的な気分になった。火勢が強まり、いったん退くとき、敬夫さんと目が合ったのが忘れられない。
火が少し収まると、一番に戻ってがれきを掘った。バールを使って敬夫さんが助け出されたとき、うれしかったが、「万歳」の声に反発を感じた。次は友達を助けに行くつもりだった。しかし、土中から噴き出す炎に阻まれた。
体育館で再会した。焼けた新一郎さんの体は布に包まれていた。長身がひつぎからはみ出していた。格好悪いな、と思った。初めて泣いた。
男性は、救出劇を「よかった話」で済ませる報道を批判し、条件付きで、これまで断ってきた取材に応じた。
「助けられなかったことを伝えてほしい」
◆
近くにある関西学院大の学生たちも、地震当日、救援に駆けつけた。
名古屋市に住む大学院生杉山卓也さん(31)は当時、仁川百合野町に下宿していた。敬夫さんの救出に奮闘したことを、大家が記憶していた。
会って、九年前を振り返ってもらった。卓也さんは「自然の前で無力だった」とまず語った。震災といえば、圧倒的な砂山の威容を思い出すという。
救助活動は自然発生的に始まった。大災害に直面した住民の誇るべき対応だった。
にもかかわらず、三十四人が亡くなった。
2004/1/20