国立天文台によると、神戸の一九九四年の降水量は年間五九九・五ミリ。一八九七年の観測開始以来、最少を記録した。
「だから」と、佐々恭二・京都大学教授(地滑り学)は指摘する。「前年の渇水が幸いし、阪神・淡路大震災での地滑り発生は少なかった。多雨期なら多発していた」
三田村宗樹・大阪市立大学助教授(地質学)は明治と現在の地形図を比べ、谷を埋めた盛り土や池の埋め立てを西宮市内だけで九十四カ所見つけた。地滑りが起きやすい同様の宅地は、六甲の山すそに散在している。
これまで地滑りは、あまり地震対策の検討対象になってこなかった。しかし、起こり得る。
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兵庫県宍粟郡一宮町。
一九七六年、福知地区で、大規模な地滑りが発生した。台風による降雨が六二〇ミリに達し、山が動いた。四十戸が埋没し、三人が亡くなった。
資料を探したところ、私たちは「記録 山津波」に行き当たった。住民有志が七七年に発行した約百ページの労作。写真と証言を集め、間一髪だった避難活動、押しつぶされた校舎の様子などがつぶさに分かる。
同町を訪ねると、編さんに携った人の多くが故人となっていた。後世の参考に記録を残そうと、当時、呼びかけがあったという。
命懸けで避難誘導した体験を寄稿した中岡忠孝さん(67)に、四半世紀前の記憶を語ってもらった。「いつまで私が話せるか。この一冊で事実が伝わる」。忠孝さんは、地滑り防止が施された山を見やった。
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西宮市仁川百合野町の会社員田中経人(つねひと)さん(43)は地震の直後、地滑りで埋まった現場を車のライトで照らし、救助を手伝った。無線で救援の依頼をし、バケツ・リレーにも加わった。
昼前、手が空き、記録の写真を撮ろうかどうか迷った。被災したのが近所の人でなければ、ためらわなかっただろう。結局、二回だけシャッターを押した。
その写真二枚を記録に残そうと、震災の年の夏にホームページをつくった。一方で、遺族らの反応が気になり、積極的なPRはしなかった。
「ここを離れるつもりはない。だから、子どもの世代に語り継ぎたい」
思いを具体化する道を経人さんは探している。
記憶は、どう記録されるのか。再び地滑りが私たちを襲う日、体験は、どう生かされるのか。
2004/1/22