中島敬夫さん(48)は一人になった。
姉泰江さん=当時(42)=の遺体は地震の翌日、父政廣さん=同(80)=は三日後、母つね子さん=同(74)=は十日後にようやく発見された。
敬夫さんは、わき腹の皮膚を右足のかかとに移植した。故郷の岡山県落合町の病院で手術を受けた。がれきに挟まれて、かかとは丸く直径五センチほど壊死(えし)していた。
三月十四日になって、阪神水道企業団の職員が初めて訪ねてきた。病院で手渡された香典は、十万円だったろうか。
すでに地滑りの人為的要因が報道されていた。企業団が谷を埋めた盛り土が、強い揺れで崩落したとの指摘だ。
地滑りの原因を、職員は「調査中」と繰り返した。補償について問うと、「一切考えていません」という返事だった。
地滑りさえなければ、家は倒れず、人が死ぬことはなかったはず。死者のためにも原因をはっきりさせたい。裁判を起こすべきかどうか、敬夫さんは迷っていた。
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「体に穴が開いて気力が抜けていく気がした」
震災前、高齢の両親の将来を負担に思ったこともある。しかし、いなくなり、父母や姉とのつながりの中に自分の生活があったと気づいた。祖先から続く命のつながりを考えるようにもなった。
家族なしに生きる意味を感じなくなった。結婚して、家族をもう一度、つくりたいと思った。
いとこと同じ職場だった清栄さん(44)を紹介され、震災の年の秋に文通を始めた。気持ちが通じ合った。年始に会って、二月にプロポーズ。六月、結婚した。直後に会社から独立し、中古タイヤを豪州に輸出する個人事業主になった。
西宮に愛着があり、市内の海沿いに家を建てた。山の近くは避けた。長女望ちゃん(6つ)、長男周君(4つ)、義母成田たづ子さん(71)と、家族は増えた。九年にわたる「生活再建」。体から欠落したものを、家族が埋めてくれていっている。
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香典は、一九九八年にパプアニューギニアで起きた津波の義援金に丸々充てた。
裁判は、あきらめた。
「提訴に時間を費やせば、結婚できなかった。そうなれば、ぼく自身がやっていけなかった」
わだかまりはある。病院に来た企業団の職員は「原因が分かれば伝える」と約束したという。いまだ連絡はない。
2004/1/19