道具が必要だった。
一九九五年一月十七日。西宮市仁川百合野町の住民は、隣人たちを生き埋めにした圧倒的な量の土砂にぼう然とした。それは固く、重かった。
目の前に動けない中島敬夫さん(48)がいた。火が迫る。なのに、助けられない。何人かが消防署へ走ったが、「ほかでも被害があり、来てもらえなかった」。消防は救出に来なかったと、今でも地元では記憶されている。
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近所の男性(33)は、敬夫さんの右足首を押さえている約二十センチ角の長い柱を見て「無理だ」と思った。もちろん、言葉にはできなかった。借りてきた車のジャッキですき間を広げようとしたが、うまくいかなかった。
工務店経営の高下(こうげ)廣光さん(51)は、のこぎりで柱を切ろうとしたが、土に阻まれた。角材をすき間に入れて押しても、微動だにしない。近くの工事現場から長いロープが持ち込まれたので、角材に結わえた。「声をかけたら、引いてくれ」。約十人に引っ張ってもらった途端、角材は折れた。
そのとき、長さ約九十センチのバールを手渡された。ロープを結わえ、また引いてもらった。声に合わせて、敬夫さんを引き出す役もいた。「せーの」。足が、抜けた。
拍手と歓声が起きた。「よかったな」。廣光さんは泣けてきた。
時間は午前八時半か、九時か。確かな記録はない。直後、あたりは激しく燃え上がった。
敬夫さんは、抱えられて土砂の山の上に立ち、初めて状況が分かった。両親と姉の死を覚悟した、という。
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バールは、どこにあったのだろう。
私たちは当時いた人たちに聞いてみた。ふつう、民家にはない道具。数人が工務店を営む廣光さんの所有物と思っていた。しかし、廣光さんは消火器を持ってきただけ。
出所は西宮市消防局の取材の際に分かった。震災の活動記録に、ポンプ車に積載していたバールを住民に渡した、との記載があった。
手渡したのは、当時、西宮消防署北夙川分署の消防士長だった深谷光雄さん(47)。動けない敬夫さんの脇にまで行った。バールが必要と判断し、車に取りに戻った。消火活動のための水源を探していた深谷さんは「これを使って」と、バールを住民に託したという。
命を救った道具は、地元にあったわけではなかった。
2004/1/15