字の美しい人だった。関西学院大学(西宮市)の元職員、荒川匡子(まさこ)さんを知る人たちは字のエピソードを語る。書類の清書を頼まれれば、快く引き受けたという。
匡子さんの兄(87)を奈良市に訪ねて、美しい字の理由が分かった。匡子さんは一九一九年生まれ。幼いころ、中国・大連の工場で働く父と文通した。日本の家族は月一回、手紙を出し、父はおかしな字に朱を入れて送り返したという。
三七年ごろ、匡子さんも大連へ。やがて、関学OBで、当時の「満州国」の官吏だった五郎さんと結婚した。
終戦。若夫婦は四七年ごろ、五郎さんの実家、現在の西宮市仁川百合野町にたどり着く。大陸から命からがらの帰国の途上、女性は安全のため男に似せた。匡子さんも髪を短く刈っていたのを、同町に住む田中靖昌さん(72)は覚えている。
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「百合野」は松林だった。一九二九年、近くに関学が移転してきたのを機に百坪単位で土地が売り出された。戦前の家は十軒ほど。五郎さんの両親は三四年、一番奥まった場所に家を建てた。
その荒川家の東側にある緩やかな傾斜地の上で、五三年ごろ、甲山浄水場の工事が始まった。周辺自治体で構成する「阪神上水道市町村組合」(当時)が、緊急の施設増強として計画した。
外地からの引き揚げなどにより、給水対象の神戸、西宮、芦屋、尼崎市の総人口は敗戦から八年で倍増、百五十万人を超えた。阪神工業地帯の水需要も急増していた。水の確保は急務だった。
ろ過池を掘った土を傾斜地の上に押し固めたのが、当時の写真からうかがえる。ニセアカシアが植樹され、やがて斜面はやぶになった。
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公務員として働いた五郎さんは七〇年に亡くなる。そのころから百合野に住宅が次々建った。
子どもがいない匡子さんは、自分の地所の一角に親せきの三家族を相次いで呼び寄せ、就職の紹介もした。よく匡子さんの家に集まったという。義理の姉は痴ほうの症状が出たが、九二年に亡くなるまで介護を続けた。「家族ですから」と苦にするふうもなく。
大陸から引き揚げるときに孤児となった知人の子を世話した-との話も聞いたが、確認できなかった。百合野に住んでいた「家族」十人全員の命を地滑りが奪った。戦後を誠実に生きた女性の記憶が土砂に埋もれた。
2004/1/11