事故当時の新聞記事のコピーを指さし、車内の様子を説明する野田純嗣さん=神戸市中央区
事故当時の新聞記事のコピーを指さし、車内の様子を説明する野田純嗣さん=神戸市中央区

 乗客106人が死亡、500人以上がけがをした尼崎JR脱線事故からまもなく13年になる。昨年12月、台車の部品が破断寸前のままJR西日本が新幹線を走らせ続けていたことが分かり、再び「安全」が揺らいでいる。脱線した快速電車がマンションに激突した4月25日、安全が失われた空間で何があったのか。今こそ乗客の証言に耳を傾けたい。あの日の車内でのこと、そして事故後に生きた13年を-。かけがえのない、「安全」を見つめ直すために。

    ◇  ◇

【1両目に乗車、西宮市の野田純嗣さん】

■あのとき

 大阪で会議があり、いつもより遅い時間に、たまたま1両目に乗った。車内はそこそこ込んでいて、座席は埋まっていた。私は運転席に向かって左側、三つ目のドア後方の座席に座り、小説を読んでいた。

 ずっと下を向いていたので、周囲にどんな人がいたかは分からない。ただ、左側に座っていた女性のスカートが明るい花柄だったことは覚えていた。

 急に「ガタンガタン」と音がし、座席ごと後ろに倒れた。とっさに2両目の方を見て、「(車体の)角度が違う」と思った。車両は左に横転。自分の背中が下になり、「ガガガー」と地面をこするような感じで、マンションの立体駐車場に突っ込んでいった。

 あっという間だった。車両が横転し、向かいにいた数人が「自分の上に乗ってくる」と思った瞬間、衝撃があり、その人たちは、木の葉が舞うように前方に飛んでいった。すごい速さで、身体ごとくるくると。私は無意識に座席のシートを右手でつかんだ。その後、私も前に飛ばされたが、そこから記憶がない。

 気付いたとき、真っ暗な中でガソリンのにおいがした。「爆発する。早く出ないと!」と思ったが、暗い上、眼鏡を失い、ほとんど何も見えなかった。明かりを頼りに四つん這いで進み、自分がどこにいるのか分からないまま、垂れ下がったネットをよじ登ると地上に出た。

 事故からしばらくし、尼崎東署で当時のことを聞かれた。亡くなった人の情報を探していたようで、「こんな服装の人を知りませんか」と何枚か写真を見せられた。花柄のスカートに見覚えがあった。

 なぜ隣の女性が亡くなって、自分が生きているのか分からなかった。何が生死の分かれ目だったのか、分からない。

■それから

 事故当時、大阪市の職員だったが、全身打撲と頸椎捻挫で約1年間休んだ。夜眠れず、体が痛く、横転した車両が地面をすっていく音が耳から離れなかった。

 なんで自分だけが助かったのか。車内で誰かにぶつかったかもしれない。自分の代わりに亡くなった人がいるかもしれない。そんな思いが今もずっとある。

 そして「生かされた」自分は、4月25日から2回目の人生が始まった、と。JR西日本が安全第一になるのを見届けなければと思い、JR西の説明会にはこれまですべて参加してきた。

 JR西は「変わった、変わった」と聞き心地の良いことを言うけれど、新幹線の台車に亀裂があった問題で「変わらんな」と思った。

 今年2月、JR西が伊丹市内で開いた被害者説明会には妻と参加した。台車について、JR西は「点検していた」と言うけれど、あんな異常が出るなんて、どんな点検だったのか-。

 大阪市を退職後、出荷前の水道管やバルブ、蛇口を検査する仕事に就いた。強度や材質をチェックし、合格のものしか出荷できない。飲み水の安全がかかっているので責任を感じて働いている。だからこそ、JR西が言う点検や検査には疑問がわいた。

 人の命を預かる電車は、基本の点検や検査にこそ力を入れるべきで、利益より安全第一。事故後、姫路市に保管されていた1両目を見に行き、ひしゃげた車体に「誰が死んでもおかしくなかった」と思った。安全以外、大事なものはない。(中島摩子)