赤富士の絵を背に、今後の戦略を語る神明ホールディングスの藤尾益雄社長。主力のブレンド米「あかふじ」の名は、武田信玄が合戦を前に拝んだ逸話にちなむ=神戸市中央区栄町通6(撮影・風斗雅博)
赤富士の絵を背に、今後の戦略を語る神明ホールディングスの藤尾益雄社長。主力のブレンド米「あかふじ」の名は、武田信玄が合戦を前に拝んだ逸話にちなむ=神戸市中央区栄町通6(撮影・風斗雅博)

 米穀卸を祖業とし創業120余年を数える神明ホールディングス(神戸市中央区)。創業家4代目の藤尾益雄(みつお)氏(58)は社長に就いた2007年、歯止めの利かないコメ離れ、農家の減少を前に「日本の農業を守る」との決意を企業理念に掲げた。コメに根を張り、野菜や魚介の流通、加工、外食へ事業を拡大。目指すは、川上の農地から川下の食卓までをつなぐ「アグリフードバリューチェーン」の構築だ。

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 コメ業界って成長産業じゃありません。消費量が減って、農家がコメ作りをやめていく。その中で挑戦していくしかないんです。日本の農業とコメを復活させたい、次の世代につなげていきたいんです。

 社長就任以降を、1902年の創業、50年の「神戸精米」設立に続く第3の創業と位置付け、コメや野菜の自給率維持をミッションとする。第2の創業を担った祖父豊氏(故人)から商売人としての薫陶を受けた。

 祖父は、周りから恐れられるほど仕事に厳しい人でした。一方、得意先にはとても丁寧だったのを覚えています。祖父の家が隣にあり、小学校から帰ると毎日呼ばれて商売とは何かを教え込まれました。高校に行く時点で「なんで学校なんか行く必要があるんや。それより精米工場でコメの勉強をせんと。免許取れる年になったら配達もせんと」と言われました。大学進学はもっと反対されました。精米工場でアルバイトをすることが大学に行く条件でした。週に3日は働きながら卒業しました。大学を出たらビジネスを学びに米国に行くことにして、カリフォルニアの大手商社に内定ももらっていたのですが、ついに祖父を説得しきれず、神明に就職することになりました。

 初日、午前8時に出社すると、上司からどやされたんです。「会長(祖父)が7時に出社されているのに新入社員の孫がなぜ8時なのか」。それ以来、毎日午前6時半に出社し、玄関先をほうきで掃いて、先輩たちの机を拭いて回りました。土日は百貨店やスーパーの店頭で販売応援をしていたので、3カ月ほど休みを取っていませんでした。時代が違いますが「絶対に日本一になるんだ。天下を取るんだ」というのが社員の気持ちに共通してあったので、へこたれることはありませんでした。

 営業マン時代は、記録的な不作に伴う「平成の米騒動」や国が主食米を買い入れる食糧管理制度の廃止などを経験しながら、キャリアを積み重ねた。

 1993年は忘れられない年になりました。冷夏でコメは記録的な不作。長雨と日照不足、低温が作物に大きな影響を与えたのです。90を下回ると「著しい不良」とされる全国の作況指数は74まで落ち込み、流通量が激減したのです。国はタイなどからのコメの緊急輸入を決め、神明も国産米に外国米を交ぜたブレンド米を出したんです。これに米穀店から次々にクレームが来ました。それで国産米と外国米をセットで卸したのですが、これが大問題になりました。

 米穀店では国産米しか売れず、店頭にタイ米が山積みになったのです。各店からは「タイ米を持って帰ってくれ。セット販売だから買ったけど処分できない」と言われて。結局、私たちの営業所はタイ米であふれかえりました。

 この騒動は、二つの新しい動きを促しました。一つは耐冷品種の誕生です。冷夏に見舞われた東北で大きな被害が出たためです。もう一つは食糧管理制度の欠点が露呈し、制度が食糧法に代わったこと。許可を受けた県内でしか卸せなかったコメを、日本全国で売れるようになりました。これによりコメ卸業界に大きな地殻変動が起こったんです。(聞き手・三宅晃貴)

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 時代を駆ける経営者の半生や哲学を紹介するマイストーリー。10人目は、神明ホールディングスの藤尾益雄社長に語ってもらった。

【神明ホールディングス】1902(明治35)年、神戸で創業。50(昭和25)年に「神戸精米」として法人化。2018年に純粋持ち株会社の現社名に。傘下にコメ卸最大手「神明」など。すしチェーン「元気寿司」、青果卸「東果大阪」などを子会社化し事業を拡大。非上場。23年3月期連結売上高は約4071億円。

【ふじお・みつお】1965年、神戸市中央区出身。芦屋大教育学部卒。89年神明(現神明ホールディングス)。米穀部や営業部に在籍し、営業本部長、専務を経て2007年社長。趣味はジョギング。仕事前に30分走ることも。座右の銘は武田信玄の「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇(あだ)は敵なり」。