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川西航空機鳴尾製作所への爆撃後、米軍が撮影した写真(米国国立公文書館所蔵)
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川西航空機鳴尾製作所への爆撃後、米軍が撮影した写真(米国国立公文書館所蔵)
1942年の鳴尾村を再現した鳥瞰(ちょうかん)図。競馬場の場所が鳴尾飛行場になる(「鳴尾村誌」より)
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1942年の鳴尾村を再現した鳥瞰(ちょうかん)図。競馬場の場所が鳴尾飛行場になる(「鳴尾村誌」より)
米軍が撮影した川西航空機宝塚製作所への爆撃。右上は武庫川(米国国立公文書館所蔵)
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米軍が撮影した川西航空機宝塚製作所への爆撃。右上は武庫川(米国国立公文書館所蔵)
鳴尾飛行場一帯。右は鳴尾川=1959年
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鳴尾飛行場一帯。右は鳴尾川=1959年
米軍が記録した川西航空機宝塚製作所の損害状況
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米軍が記録した川西航空機宝塚製作所の損害状況

 激しい地響きと共に、少年少女らが暮らす50棟の寮施設が次々と崩れ落ちた。

 1945年7月24日午前10時半すぎ、兵庫県宝塚市域にあった航空機生産工場「川西航空機宝塚製作所」に、77機のB29が1千ポンド爆弾901発を集中投下した。

 「ストライク」。そんな説明付きの写真を米軍兵が撮った真下で、製作所職員だった当時39歳の男性Sさんは寮内の防空壕(ごう)にいて、がれきに埋もれた。

 動員された少年ら200人の世話を寮でしていた。病気の2人を両脇に抱いて壕からはい出ると、続く爆撃で吹き飛ばされた。

 その頃、どこからか対空砲火が放たれ、B29の1機が墜落する。しかし、日本軍の戦闘機はほとんど現れず、空からの攻撃はやむことがなかった。

 米軍の作戦は通称「エンパイア計画」。宝塚と大阪、名古屋市などの主要な重工業施設6カ所を同時に襲撃する。狙いの一つは、日本側の迎撃態勢を分散させることにあったのだ。

 倒壊した女子寮でSさんは少女の頭を見たが、木材に挟まれて救えない。その奥で、少女8人が寮母に抱かれるように折り重なって息絶えているのが見えた。

 「何故(なぜ)この様な子供まで犠牲にしなければならなかったのか」。Sさんは戦後、そう問い続け、惨状を手記に残して亡くなった。

     ◆   ◆

 3月16~17日 神戸空襲

     約280機

 6月5日 神戸空襲

     約150機

 6月9日 川西航空機の鳴尾製作所・川崎航空機の明石製作所への爆撃

      計約50機

 7月24日 川西航空機の宝塚製作所への爆撃(エンパイア計画)

 県外含めて25~30機

 これは米軍文書に残る日本軍戦闘機の迎撃機数だ。6月の神戸空襲を米軍は「大阪-名古屋地域で最も激しい抗戦」と記録。日本軍は戦闘機150機と高射砲で迎え撃ち、B29は474機のうち11機を失い、170機以上が損傷した。

 しかし、これを機に日本軍の戦闘機出動は激減する。そこで米軍は航空機の生産拠点を徹底的にたたいて戦闘力を弱める戦術を進めた。反撃されやすくとも命中率が高い昼に狙い、同時多発攻撃で迎撃リスクを避けたのがエンパイア計画だった。

 市史などによると鳴尾製作所では工場の6割以上が破壊・焼失され、付近住民を合わせ48人が死亡。宝塚製作所は8割を焼き壊され、計106人が死亡したとされる。

     ◆   ◆

 「日本の本土防衛には、わずかの戦闘機しか残っていないと考えられる」。計画遂行後、米軍文書はそう考察を記す。宝塚では日本の数機が飛来してきても、攻撃さえしてこなかった。

 旧防衛庁資料によると、京阪神には伊丹、大正飛行場(現・伊丹、八尾空港)という二つの防空拠点があったが、部隊は43年から外地に駆り出されて全滅を重ね、戦力を消耗していた。

 それでも、尼崎市立歴史博物館職員の辻川敦氏はこう指摘する。「迎撃自体の効果が期待できず、残った戦闘機はできるだけ温存して避難させていたんです」

 日本軍は本土決戦に向けて、体当たり攻撃などの奇襲に備えていた。

 米軍は交戦することなく空からの攻撃で終わらせようとしていた。標的は施設ではなく、人そのものへと移っていく。(竹本拓也)

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