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阪神大空襲で家屋などが焼き壊された西宮神社付近
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阪神大空襲で家屋などが焼き壊された西宮神社付近
1945年7月27、31日に米軍が西宮市上空からまいたビラ。「爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分りません」などと記す
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1945年7月27、31日に米軍が西宮市上空からまいたビラ。「爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分りません」などと記す
「空襲にも人の死にも慣れてしまっていたことが恐ろしい」と語る宮内宏さん=西宮市
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「空襲にも人の死にも慣れてしまっていたことが恐ろしい」と語る宮内宏さん=西宮市
「全国主要都市戦災概況図」にある西宮市の被災状況(国立公文書館デジタルアーカイブから)
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「全国主要都市戦災概況図」にある西宮市の被災状況(国立公文書館デジタルアーカイブから)

 真っ暗な空から火の雨が降ろうとしていた。

 1945年8月6日午前0時半ごろ、「ブワーン、ブワーン」と兵庫県西宮市松下町の住宅街に空襲警報が響きわたる。当時7歳だった宮内宏さん(82)は、夜空一面に小さくきらめく無数の火の玉を見て「きれいな星々だな」と思えた。

 家族10人と庭の防空壕(ごう)へと駆け込もうとした瞬間、焼夷(しょうい)弾が家々の壁や屋根に突き刺さり、あちこちで火柱が上がる。メキメキと焼けていく音を壕の中で聞いた。

 「近くに軍需工場があるから狙われたんじゃないか、と幼心に思った」

 その直後、西宮市域の南東部にあった鳴尾村(当時)でも住宅街に炎が広がる。村には川西航空機鳴尾飛行場があり、住民たちは「戦闘機を松林に隠したから標的にされたんじゃないか」とうわさした。

 西宮市-神戸市東灘区を業火に包んだ「阪神大空襲」。米軍文書によると、255機のB29が西宮市域の南西から飛来し、1時間36分にわたり、北東へと波状的に1922・8トンもの焼夷弾を落とした。当時の西宮市域の約2割が焦土と化し、485人が命を落とした。鳴尾村でも188人、芦屋市でも89人が犠牲となったとされる。

    ◆   ◆

 これまでの連載で、6月の尼崎空襲はプロペラ工場などが狙われ、7月には航空機工場が標的にされたことを書いてきた。ならば、阪神大空襲は何を目標としたのか。

 米軍資料を調査する神戸大学地域連携センターの学術研究員佐々木和子氏は「それは単純かつ合理的なもの」としてこう解説する。

 「住宅密集地。特定の軍事目標をたたくのではなく、狙ったエリアのすべてを無差別に攻撃する『じゅうたん爆撃(カーペット・ボミング)』です」

 6月5日に「神戸」、6月15日に尼崎を含む「大阪」を狙った「5大都市空襲」を完了させた米軍は、それ以外の中小都市を壊滅させる作戦に移る。

 米軍資料によると、通常は一つの中小都市に一つの航空連隊140機程度で臨むところ、西宮-御影間を1都市とする「阪神」には倍の2隊を向けていた。神戸、大阪の大都市に挟まれた「産業の後背地」としてとどめを刺したのだ。

 実は1週間前、米軍は2度にわたり、西宮の空から大量のビラをまいていた。

 「罪のない人達を傷つけたくはありませんですから裏に書いてある都市から避難して下さい」

 無差別空襲の予告だった。米軍はこれを「フェアな警告戦法」とし、市民の戦意を喪失させつつ、米軍への信任を深めさせる狙いを込めていた。

 しかし、「阪神大空襲は、市民の防火レベルを完全に超えている」と佐々木氏は話してこう指摘した。

 「人々は結局、イライラ、じたばたしながら、待つしかなかったんです」

 空襲を終えて6時間後、B29は人類初の原子爆弾を広島の空から投下した。

    ◆   ◆

 阪神間へのB29による空襲は尼崎市で8回、西宮市で5回、芦屋市で4回を数えた。7月下旬からは中小都市に当たらないまちにも戦闘機で機銃掃射を加え、川西市で少なくとも5人、三田市でも児童ら5人の命を奪った。

 8月15日。戦争は終わった。(竹本拓也、村上貴浩)

=おわり=

狙われた理由(3)阪神空襲と米軍文書 同時攻撃で迎撃を分散
狙われた理由(2)阪神空襲と米軍文書 臨海部避けた焼夷弾「投下のミス」は思い込み
狙われた理由(1)阪神空襲と米軍文書 尼崎と西宮で異なる作戦

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