震災で亡くなった中島彰子さん(右)と、幼い頃の次女。「母は無償の愛の人でした」(提供写真)
震災で亡くなった中島彰子さん(右)と、幼い頃の次女。「母は無償の愛の人でした」(提供写真)

 中学3年の時、阪神・淡路大震災で生き埋めになった女性(45)は、大学2年の時にうつ病を患った。

 「駅のホームに立てば飛び降りることを考えて、談笑している人を見れば何で笑ってるの?と思ってしまうんです」。立ち直るまでをしみじみ振り返る。

 「めっちゃ、遠回り」

 休学し、米国の心のケア施設で休養。帰国後、心的外傷後ストレス障害(PTSD)について学ぶ父に購入を頼まれたことで、ある本に出合った。

 ハンセン病患者と共に生きた精神科医、神谷美恵子(1914~79年)の「生きがいについて」。社会復帰の道を閉ざされた境遇でも生きがいを見いだす。本を閉じた時、手探りでいい、動き出そうと思えた。

 やりたいことの一つが、母の中島彰子さんも親しんだ音楽だった。大学4年からジャズ歌手の見習いとして大阪のバーで働き始め、卒業後も続けた。歌は人の心を癒やし、動かすと実感した。

■被災地でミュージカル

 31歳の時、東日本大震災が起きる。しばらくして市民ミュージカルが被災地で上演を予定していると聞き、参加を申し込んだ。東京のNPO法人が企画し、全国から集まった一般人100人で演じる「ア・コモン・ビート」だ。

 稽古中、思うことがあった。発生直後にボランティアで支援物資を集め、避難所に運び届けたことがある。家族を、家を失い、ぼうぜんとする被災者にかつての自分たち家族を重ねた。

 そこでミュージカルのメンバーに恐る恐る提案してみた。事前に被災者のことを学ぶ「メンタル部」をつくってはどうですか、と。

 それ、いいね。仲間らは賛同してくれた。

 2012年夏。石巻市で舞台に立ち、坂本九さんの「上を向いて歩こう」を歌った。歌詞を「前を向いて歩こう」「涙がこぼれてもいいじゃないか」に変えて。

 前を向くことを押しつけられると、つらくなる。でも、孤独はもっとつらい。1人じゃないよ-というメッセージだった。

 一緒に踊り、涙を流す被災者もいた。自分も背中を押された気がした。

■手放してあげなきゃ

 30代で体調を崩して東洋医学に興味を持ち、鍼灸(しんきゅう)師になった。奈良で畑を借り、無農薬・無施肥の自然栽培にも励んでいる。

 女性は今も、密閉した空間に入ると体が震えるなど、地震の後遺症がある。一方で、日常生活で気持ちの乱れはほぼなくなった。

 苦しむ母の最期を意識し続けることは、やめた。「母を二重に苦しめる感じがしたんですよね。手放してあげなきゃ、って」

 親子で数学が好きで、よく一緒に取り組んだ。地震の数週間前、超難問とされる証明問題を1週間で解くことに挑んだ。

 答えを導き出し、塾の講師に見せると、正解。ただ、正攻法ではなく、かなり遠回りした解き方だと言われ、親子で笑い合った。

 「あの成功体験は、ほっこりするんです。遠回りでもいいやって」

(山脇未菜美)