太平洋戦争末期、日米で20万人以上の犠牲者を出した沖縄の地上戦で、凄惨(せいさん)な戦況を伝え続けた記者たちがいた。戦後、那覇市内に建立された「戦没新聞人の碑」には約2カ月の戦闘で犠牲になった14人の名前が刻まれている。毎日新聞の記者だった下瀬(しもせ)豊さんもその1人。言論が統制され、日本の敗色が濃厚となる中、祖父は何を思いペンを握ったのか。兵庫県内で暮らす孫の男性(52)に話を聞き、80年前の足跡をたどった。(金海隆至)

下瀬さんは1941(昭和16)年、福岡県の毎日新聞西部本社に入社。同社によると45年2月、那覇支局員として沖縄本島に入り、従軍取材を始めた。
故郷の長崎には身重の妻と2歳の長女を残していた。
戦後、兵庫県に転居した長女は今年、82歳になった。その息子となる孫の男性が伝え聞いた話では、先に赴任が決まっていた記者の代わりに手をあげ、死の危険と隣り合わせの沖縄行きを決めたという。
着任からまもなく、下瀬さんは野村勇三支局長とともに砲弾が飛び交う前線を駆け回った。

米軍が上陸した4月以降は首里城の地下に設けられた第32軍司令部壕(ごう)に避難しながら取材を続け、那覇の無線局から本土に記事を送った。























