奈良時代の僧、行基が有馬温泉を再興しました。行基が発見したといわれる温泉は、草津温泉や山代温泉など日本各地に20カ所を超えます。
しかし、行基がつくったといわれる昆陽池などの貯水池や、淀川にかかっていた山崎橋、大輪田泊(おおわだのとまり)などの港は近畿地方に集中しています。このようなことから、行基自身は畿内にとどまり、周囲に形成した行基聖(ひじり)と呼ばれる集団が、地方に温泉や寺院を広げていったと考えられます。
有馬の歴史を振り返ると、724年に行基が温泉寺を建立し、その後有馬は数十年間繁栄したとあります。しかし、997年の和泉式部の来湯までの約200年間は、有馬温泉の空白の期間です。
そこで行基が開いたとされる温泉地の歴史を見てみましたが、同様に鎌倉期近くまで空白でした。では空白の期間に何があったのでしょうか?
日本列島の下には二つのプレートが沈み込んでいます。一つは地球上で一番古い太平洋プレート。古いということは冷めていて重く、沈み込み速度が速い。東北大学の研究によると、1年間で約18センチ沈み込んでいます。一方、近畿地方に沈み込んでいるフィリピン海プレートは新しいので熱く、軽くて沈み込む速度は遅い。1年間で約6センチ沈み込んでいます。
この沈み込みが互いに干渉し合った時代が、空白の期間と重なると考えられます。864年には富士山や阿蘇山が噴火を起こし、869年には貞観地震が起こりました。関西や日本各地でも地震や火山噴火が多発し、さらに天然痘などの病気がまん延していたので、平安貴族は有馬などの温泉地に来る余裕や考えすらなかったのかもしれません。
しかし1024年、平安時代に絶大な権力を手に入れた藤原道長が晩年、有馬温泉にやってきました。外国人観光客に人気の平等院鳳凰堂を建立した息子の藤原頼通も、1042年に訪れています。
入浴習慣も変化していきました。平安時代、入浴に必要なものとして内衣(ないい)が義務付けられていました。内衣は白い布で、入浴時に他人と肌が直接ふれないようにするためです。内衣は湯帷子(ゆかたびら)ともいわれ、浴衣の原型です。平安時代の末期から鎌倉期になると、男性は「湯褌(ゆふんどし)」、女性は「湯もじ」「湯まき」をして入浴するようになっていました。この入浴方法は江戸中期まで続きます。そして湯褌の白い布は手ぬぐいとなり、日本人が裸で入浴するようになるのは江戸中期以降。裸での入浴の歴史は意外と浅いのです。(有馬温泉観光協会)